2008年08月18日

夜と霧

本日はヴィクトール・E・フランクル氏による
夜と霧
です。
夜と霧 新版

本書は成功読書術にとりあげられており、
興味をもって購入しました。

本書は、あの悪名高いアウシュヴィッツ収容所から帰還した、
ある精神科医の体験記です。

そこで行われていた非道な行為は、
他の文献や報告でも明らかになっていますが、
ここでは一個人として、著者が何をどう感じたのか?
人間は極限状態におかれるとどうなるのか?
そんな疑問に応えてくれる本になっています。


現代の日本に住んでいる私からすれば、
想像することもできない世界です。

この本から"戦争はやめよう"とか"人種差別はやめよう"とか
そんなことを我々が感じたとしても、
それにどれほどの意味があるのかはわかりません。

ただし、そんな極限状況におかれながらも、
なぜ生きることができるのか?ということは、
我々にも通じるところがあるのでないでしょうか。

極限状態に置かれて初めて浮き上がってくる
人間の本当の姿というものがこの本にはあります。


人とは?生きる意味とは?と問う人には、
必ず読んでもらいたい一冊です。



カポーは劣悪なものから選ばれた。
この任務に耐えるのは、ありがたいことにもちろん例外はいたものの、
もっとも残酷な人間だけだった。
(中略)
わたしたちはためらわずに言うことができる。
いい人は帰ってこなかった、と。


仲間が煙草を吸いはじめると、わたしたちは、行き詰ったな、と察した。
事実、そういう人は行きつづけられなかった。


たとえば、丸裸で、シャワーを浴びたためにまだずぶ濡れで、
晩秋の寒さのなか、戸外に立たされることの結末やいかに。
そして、好奇心は驚きによって満足させられた。
たとえば、だれひとり、鼻風邪ひとつひいていない、という驚きによって。


収容所暮らしでは、一度も歯をみがかず、
そしてあきらかにビタミンは極度に不足していたのに、
歯茎は以前の栄養状態がよかったころより健康だった。


半年間、たった一枚の同じシャツを着て、どう見てもシャツとは言えなくなり、
洗い場の水道が凍ってしまったために、
何日も体の一部となり洗うこともままならず、
傷だらけの手は土木作業のために汚れていたのに、傷口は化膿しなかった。


収容されて数日で、ガス室はおぞましいものでもなんでもなくなった。
彼の目に、それはただ自殺する手間を省いてくれるものとしか映らなくなるのだ。


収容所では、政治はいつでもどこでも関心の的だった。
(中略)
楽観的なうわさは、もうすぐ戦争が終わるという希望をもたらし、
希望は何度も失望に終わったために、
感じやすいひとびとは救いがたい絶望の淵に沈んだ。
往々にして、仲間内でも根っから楽天的な人ほど、
こういうことが神経にこたえた。


ほんのひとにぎりであるにせよ、内面的に深まる人びともいた。
(中略)
そうした人びとには、おぞましい世界から遠ざかり、
精神の自由の国、豊かな内面へと立ち戻る道が開けていた。
繊細な被収容者のほうが、粗野な人びとよりも収容所生活に
よく耐えたという逆説は、ここからしか説明できない。


カポーや厨房係や倉庫管理人や「収容所警官」といった特権者たちだ。
彼らはみな、幼稚な劣等感を埋め合わせていた。
この人びとは、「大多数の」平の被収容者のようには
自分が貶められているとは、けっして受けとめていなかった。
それどころか、出世したと思っていた。


人は強制収容所に人間をぶちこんですべてを奪うことができるが
あたえられた環境でいかにふるまうかという、
人間として最後の自由だけは奪えない、
実際にそのような例はあったということを証明するには充分だ。


抜け出せるかどうかに意味がある生など、
その意味は偶然の僥倖に左右されるわけで、
そんな生はもともと生きるに値しないのだから。


以前、なに不自由なく暮らしていたとき、私はすっかり甘やかされて、
精神がどうこうなんて、まじめに考えたことがありませんでした。


わたしが、収容所の一日は一週間より長い、というと、
収容所仲間は一様にうなずいてくれたものだ。


現実には、人間の真価は収容所生活でこそ発揮されたのだ。
おびただしい被収容者のように無気力にその日その日をやり過ごしたか、
あるいは、ごく少数の人びとのように内面的な勝利をかちえたか、ということに。


この収容所は1944年のクリスマスと1945年の新年のあいだの週に、
かつてないほどの大量の死者を出したのだ。
(中略)
この大量死の原因は、多くの被収容者が、クリスマスには家に帰れるという、
ありきたりの素朴な希望にすがっていたことに求められる、というのだ。


わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、
むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ


生きるということはけっして漠然としたなにかではなく、
つねに具体的ななにかであって、
したがって生きることがわたしたちに向けてくる要請も、とことん具体的である。


自殺を図った者を救うことはきびしく禁止されていた。


人間が生きることには、つねに、どんな状況でも、意味がある、
この存在することの無限の意味は苦しむことと死ぬことを、
苦と死をもふくむのだ、と私は語った。


人間とはガス室を発明した存在だ。しかし同時に、
ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ。


わたしたちは、まさにうれしいとはどういうことか、忘れていた。
それは、もう一度学びなおさなければならないなにかになってしまっていた。


ふるさとにもどった人びとのすべての経験は、あれほど苦悩したあとでは、
もはやこの世には神よりほかに恐れるものはないという、
高い代償であがなった感慨によって完成するのだ。






engineer_takafumi at 23:28│Comments(0)TrackBack(0) ★一般書の書評 | ⇒ 勉強・教育・心理

トラックバックURL

コメントする

名前
 
  絵文字