2007年09月10日

思考と行動における言語

本日はS・I・ハヤカワ氏による
思考と行動における言語
です。
思考と行動における言語

本書は成功読書術の中で紹介されており、
興味を持って購入しました。

この本はこんな背景の下に生まれました。
この本のもととなった「行動における言語」は1941年に発行された。
それは当時、何百万人の人々をその狂的・破壊的な見解に巻き込んだ
アドルフ・ヒトラーの実例に見る、宣伝の危険に対応する
という意味が多分にあった。


つまり、コトバの力により、大変な惨劇が起きてしまった。

それを反省するために、言論のもつ力や性質について
体系的に述べたのが、この本というわけです。

いかなる語も同じ意味を二度持つことはない、
著者はコトバを相対的に見る立場から語ります。

それにも関わらず、言葉が記号としてひとり歩きしている現状、
言葉がわれわれの感覚にどのように影響しているか、
思考についての本質にも深く切り込みます。


少し古い訳書ということで、決して読みやすいものではありませんが、
コトバの本質を知るために、モノを書く人であれば、
ぜひ一読しておいた方が良い内容だと思います。



記号は物そのものではない。地図は現地ではない。言葉は物ではない。


われわれは言語を孤立した現象として
考察しているのではないということである。


辞書の書き手は歴史家であって法律を作る人ではない。


いかなる語も決してまったく同一の意味を二度持つことはない。


もし「正義」という語がアメリカ最高裁判所の九人の判事に
まったく同じ意味を持つなら、
常に全員一致の判断が下されるはずだということになる。


かれらが救われるに先立って、
まずかれらの問題を話し合える語彙が教えられなければならない


ひとの名は、その人の一部分であるという信仰となって。
それゆえ、ある人の名前を知ることは、かれを支配する力を持つことになる。


われわれは、「またいらっしゃい」と言っても、
お客が二度とこないようにとの希望を示すこともできる。


教育のある人々は、お茶やレセプションでのおしゃべりを聞いて、
その話のくだらなさからお客はすべてばかではないかと結論したりする。


人々は臆病で互いに信用していないので素直にそう言えないのだ。
かれらは互いの声を聞きたいのだ。
人々は他の人々も自分と同様だという保証が必要なのだ。


正確にのべられた事実は、結果において、
むき出しの断定よりもいっそう感化的であることが多い。


文学作品や劇、小説、戯曲、映画などを味わい、それについて考える時、
われわれは、その物語の主役がある程度われわれ自身を象徴化している場合に、
もっとも深い味わいを感ずる。


人間は自分の生き方を外在的に知るだけでは満足しない。
人間は自分の足の見たり感じたり行ったりしたことを
自分で語らずにはいられない。


語の意味を聞かれた時、われわれが常に抽象のハシゴを
より低いレベルの抽象に下れば、われわれは言語の迷路に迷い込まなくてすむ。


動物がわれわれをおびやかす、語がわれわれをおびやかす。


現行規則では自分自身を「ユダヤ人」であると呼ぶものは
ユダヤ人であるということになっている。


語がそれが代表する物との間に決して「必然的な関連」はない。
ということを深く認識することである。
この理由から、外国語の勉強は、
たとえ他の役に立たなくとも、つねにわれわれの為になる。


長い眼で見れば、コトバに無頓着な人々の慣用が支配することになる。
私が賛成できない用法も受け入れられるようになるだろう。
妥協を一切拒んで抵抗しても無駄だ。
しかしそのことが気に懸かる以上は抵抗するのが義務だ。
そういう抵抗を押し切って生じる変化というものは、試練を経た変化である。
コトバはそういう試練に、そして抵抗に、遭ってよくなるのだ。


物の一類と他の類との間のどこに線を引くかということは、
われわれの持つ関心と分類の目的にかかっている。


「よせやい!商売は商売だ、かまうものか」
こうした言明は「事実の単純な叙述」のように見えるけれど、
それは単純でもなく、事実の叙述でもない。
初めての「商売」は、問題の取引を指し、第二の「商売」は語の内包を呼び出す。


社会は、望みの結果を生むような分類の体系を「真理」と見るのである。


ナチスは、かつてどんな政党も前例を見なかったほど極端に、
野蛮さにおいて極端であると共に、愚かしさでも極端に
二値的考え方を推し進めた


多くのナチスの看守と死刑執行人たちは、かれらの恐ろしい仕事を、
怒りや悪魔的な喜びからでなく、ただ義務として遂行したのであった。
(中略)
人々に、普通なら熱狂のうちにしかできないような事を、
冷然としてさせ得るのは宣伝の作用である。


数学の法則は現実に適用する限り、それは確実ではない。
それが確実である限り、それは現実には適用しない。


二値的考え方は闘争心を増大させるが、
世界を正確に評価する能力をひどく弱める。


これまで多値・無限値的考え方を大いに奨励して来たが、
感情の表現においては、二値的考え方がほとんど避けられないことを
見逃してはならない。


「開かれた心」の持ち主は、もっと複雑な反応をも示すことができる。
すなわち話し手は受け入れるがその話の内容は拒否するとか、
話し手は拒否するがその話の内容を受け入れるとかすることができる。


広告は記号を操作する仕事である。


かれの読んでいる本が理解できなくて、
理解できないのは自分が悪いのだと思い込み、
かれは良心的にくり返しくり返し課題にとりくみ、
ついにかれらはその科目の語彙だけを熟知することになる


知識は力と言われているが、役に立つ知識とは、
その知識の限界をしることをも含むものである。


知的に成熟した人も何についても「すべてを知っている」というわけではない。
しかも、このことがかれを不安にはしない。それはかれがしっているからだ、
人生で唯一の保証とは、内部から来る動的な保証すなわち、
精神の無限の柔軟さから来る保証、無限値かの考え方から来る保証である、と。






engineer_takafumi at 23:20│Comments(1)TrackBack(0)この記事をクリップ!★一般書の書評 | ⇒ 書き方・話し方・言語

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この記事へのコメント

1. Posted by 前田   2011年05月25日 23:51
私も最近この本を読みました。
いい本ですよね。

ポイントが分かりやすくまとめられていますね。
ありがとうございます。

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