2014年08月14日

数学は言葉

本日は新井紀子氏の
数学は言葉
です。
数学は言葉―math stories

本書は「数学は言葉」というタイトルが、
自分の考えと一致していたので、購入してみました。


数字や数式は数学の道具という以上に、
コミュニケーションの手段でもあります。

外国にいっても数字を見れば、
ものの値段などを知ることができるし、
専門分野の文献であれば、地の文は読めなくても、
数式と図だけで、内容をつかんだりすることもできます。

本書は、このような数学の言葉としての役割に
フォーカスを当てた本です。


ただ、内容はただの数字のように簡単なものではありません。
大学の専門課程で学ぶ数学は独特の表現がされています。
本書ではそれを「数文」と呼び、その表現を学びます。

本書では、「数文」の読み方、書き方を親切に解説してくれますので、
ゆっくりでもたどっていけば、「数文」を読めるようになるでしょう。
自分が学生の時にあれば、と思った一冊です。


私が大学に入学して、初めて本当の「数学」の洗礼を受けたとき、
「なんでわざわざこんな抽象的に難しく書くのだ!」
と、怒りに近い感情を感じたものです。

でも、それは歴史と意味のあることなのです。
この本から、数学の本質に少し近づけたような気がします。


個人的には、
数学により、直観では理解しえないものについても
合理的に考える方法論を人類が獲得した、
という文が印象的でした。


大学に入学して、数学の教科書の変わりように
面食らっている理系大学生におすすめの一冊です。
数学特有の表現を学ぶことにより、
数学の本へのアレルギーを減らすことができるでしょう。




理科や社会では、後半の定義と同じくらい、例が重要です。
最初に定義があるのではなく、いくつかの例の特徴を
定義としてまとめているのが理科や社会の教科書です。
それに対して、数学の教科書では
例が出てくるより前にまずは定義です。


数学書のスタイルは『原論』で確立された


『原論』は、私たちが日常の中で「当たり前」「説明しなくてもわかる」と
考えていた概念をあえて取り出し、呪術性や背景を捨て、
積み重ね可能になるように平らに規格化したのです。


「はじめに点ありき」ではなく、むしろ、はじめにあるのは面なのです。
その面の切断部分が線となる、とユークリッドは定義したのです。


『原論』の23の定義と5つの公準(要請)と5つの公理(共通概念)からは、
「どんな短い線の上にも無数に点が存在している」
ことは証明できますが、
「点が無数に集まると長さを生じる場合がある」
ということを導くことはできません。


「定義」こそが数学の辞書なのです。


数学語の圧縮技術こそが多くの人を数学から
遠ざけているともいえるかもしれません。


日本語では、関係をあらわす語や否定が最後尾にきたり、
論理結合子と対象がひとつの語句に混ざり合っていたりして、
論理的に分析しにくい構造をしています。


数学においては、「Aである」か「¬A」であるかの
どちらか一方が必ず成り立ち、
「Aと¬Aの中間」ということはありません。
この性質を排中律といいます。


多くの理系大学生がつまずく、集合や位相、
線形代数の基本問題などは、7割以上が
機械的な証明ができるものなのです。


数学の文が不自然であることの責任の大半は、
書き手ではなく日本語の側にある


数学を表現するには、自然言語はあまりに大雑把だった!


数学的に記述すると、距離は、空間上の2点に対して、
非負の実数を対応させる関数であり、
面積は、平面上の(閉じた)図形に対して、
非負の実数を対応させる関数だと考えることができる


数式の表現能力はあくまで限定的なものに過ぎません。
一方で、ε-δ法に代表されるように、数式は自然言語では
うまく説明できないような差をくっきりと説明し分ける
高い表現能力を備えているのです。


「部屋中に本を置いている」という例で、
「部屋中に」という言葉があったとき、「本」を複数と解釈する
という言葉の規則を私達が頭に持っているとはちょっと思えません。
むしろ、文の意味をまず理解し、事態をイメージするからこそ、
本は複数とわかるのではないでしょうか。
人間の言語理解をめぐるこの部分は、
コンピュータに膨大な対訳例を記憶させても
うまくいかないことと相まって、今のところ、
そもそも「計算」できるのか、どんなふうに「計算」すればよいか、
謎のままです。


「見ればわかる」わけではないのです。
「説明されることによって、わかる」のです。
そして、その説明に論理の飛躍があったり、
曖昧な部分があればわかることはできません。
誰もが同じ認識にたどりつくような形で表現されたとき、
私たちは共通の真理にたどりつきうるのです。


彼らのストイックさは、数学を事実から解放する、
という思わぬ結果をもたらしたのです。
事実から解放される、とは、直観では理解しえないものについても
合理的に考える方法論を人類が獲得したことを意味します。
4次元空間とか、無限数列の収束といったことは、
私たちの日常の感覚をはるかに超えています。


古代ギリシャで生み出された「証明」という手段によって、
私たちは「この世に存在し、目で見て触って確かめることができること」
以外のものを、数学的対象として扱い、それらの性質について、
呪術以外の方法で知ることができるようになったのです。


古代ギリシア人の信念
「論理だけは時代を超えて必ずや受け入れられる」は、
正しかったといえるかもしれません。


実は多くの数理論理学者が、フェルマーの定理は
もっと初歩的な証明をもつはずだ、と予想しています。
ただし、それが「簡単な証明」である保証はありません。
その証明の長さが天文学的に膨大になる可能性があるからです。






engineer_takafumi at 01:53│Comments(0)TrackBack(0)★理系本の書評 |  ⇒ 数学

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