2015年01月07日

母の手紙

本日は岡本太郎の
母の手紙
です
hahanotegami


岡本太郎の本を読んでいて、彼は強烈な個性を持っていますが、
彼の両親もまた個性派と知り、太郎の家族についての本である
本書を読んでみることにしました。


調べてみると、岡本太郎の両親は本当に個性的です。
父一平は漫画家、母かの子は小説家で歌人、仏教研究でも有名でした。

そんな、芸術肌の一家で家族の衝突も激しかったとのことです。
放蕩や不倫(「奇妙な夫婦生活」)などもあったようですが、
その中でも3人がお互いを人として尊敬しつつ
暮らしていたということは、自由な今の世からみても驚かされます。


本書はそんな家族の中で、太郎がパリに留学中に、
母と交わした手紙と母かの子の死の後に、
父と交わした手紙が集められています。

何気ないやりとりの中にも美しさを感じる表現があったり、
また、内に秘めた熱いものを垣間見る部分もあります。
何より、お互いを思いやる愛情にあふれています。


かの川端康成に、
「三人を一つの家族として尊敬した。」
言わしめた理由が少し見えたような気がしました。


岡本太郎に興味を持った人にはお勧めの一冊です。
太郎のルーツに触れることができるでしょう。



岡本一平、かの子、太郎の一家は、私になつかしい家族であるが、
また日本ではまったくたぐい稀な家族であった。
私は三人をひとりびとりとして尊敬した以上に、
三人を一つの家族として尊敬した。


家族というもの、夫婦親子という結びつきの生きようについて考える時、
私はいつも必ず岡本一家を一つの手本として、一方に置く。


私達一家三人の芸術家は、肉親的な愛情よりも、
むしろ芸術の上では対等の友であり、
仮借ない批判的な研鑽の中に生活した。


わたし達は芸術家なのだものね、
好い芸術さえ生めば俗人どもの同情の無い僻目や嫉妬心で
残酷なとりあつかいされたってしかたないのね。


巴里は豪華であり清楚であり情熱的である。


あんたも描きなさい。描くことがすべての土台です。
「迷い」の土台とさえなるのです。
いくら真実を説いても現実的実行のない空想ではだめです。
描いてさんざん迷い不遇をも経過しコツンと突き当たるべし、
本当の処に。


私は私の芸術を太郎の芸術や生活をよく味了することの
幸福を味わうという考えに落ちついて来たの。
太郎がどんなに世界のはてに居ても
同じこの世に生きて居ることを喜ぼう。
ときどき逢えさえすれば甘い家庭の幸福なんか望むまい、と思うの。


それは、また、お前がお前自身に対する註文なのじゃないか。
親子は共通の弱点を持っている。お前はよくも、そこに気づいた。


曇りの日の街に出て、母を亡くした日の空を仰いだ。
垂れ下がった雲の下に、取りみだしたまま、
しおれ返っている自分の客観して、
何んとみじめになったものか、と思う。


最後の電報にお父さんが僕のために生きるとありましたが、
お互いのために生きることは勿論ですが、
同時にそれぞれの責任のために強く生きることが
僕にはのぞましく思われます。


おかあさんはオシャレだ。
病気になってから眠られるまで自分のやつれた姿を
見度くないといって鏡を絶対に見なかったほどの人だ。


人生は意義ある悲劇です。
それで美しいのです。生甲斐があるのです。


母かの子は私にとって、まことに「母性」らしからぬ存在だった。
この手紙を読んでも分かると思うが、世の常の賢母とか慈母とか、
そんな型にはまった母ではなく、まったくユニークな、
なまなましい人間そのものとしてあった。


母は決して丈夫な体質ではなかった。
よく病気もしたし、壊れやすい珠のような人だった。
父や周囲の者が心配して、二人とも愛しあい、
情が濃まやかすぎて、かえって一緒にいるとよくない。
離れて暮らした方がいいという結論になった。


この本は1941年の暮、太平洋戦争が始まる直前に
婦女界社から刊行された。
私は戦争にかり出されることが決まっていた。
絶対に戦争反対だし、勝てるはずがないと信じていた。
だから絶望的に、もう恐らく生きて帰ることは出来ないだろうと覚悟した。
私は二等兵として中国の前線につれて行かれたが、日本を離れるとき、
すべてへの訣別の思いをこの書に托した。


数年前の、あの川端さんの痛ましい最期が「岡本かの子全集」のための
原稿に向かっておられた最中であったとは。
私には強烈な衝撃であった。









engineer_takafumi at 00:52│Comments(0)TrackBack(0) ★一般書の書評 | ⇒ その他の本

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