2015年01月16日

われ敗れたり

本日は米長 邦雄氏の
われ敗れたり
です。


本書はちきりんさんのブログを見て、興味を持って購入しました。


著者の米長さんは公の場でプロ棋士として、
初めてコンピュータとの対局に挑戦します。

結果、負けてしまうわけなのですが、
本書にはその一部始終が記されています。

勝負師がコンピュータとの勝負にどのように臨むか
その過程は将棋を知らない私にとっても
非常に興味深いものでした。

長年、厳しい勝負の世界で生きてきた著者の、
勝負観には感服しました。


また、コンピュータ相手の将棋の研究と人間相手のそれとは
全く異なるということに、意外さを感じ、
人と人のぶつかり合いであるプロ棋士の勝負に
より魅力を感じました。

私は将棋は駒の動かし方を知っている程度なのですが、
ネットでプロ棋士の勝負を見てみました。
そして、その勝負の姿に大変な魅力を感じました。


著者は当時、将棋連盟の会長でしたので、
目の前の勝負だけではなく、
未来の将棋界のあり方についても深く考えたことでしょう。

「敗れたのは米長だが、勝ったのもまた米長である」
ある人が今回の対局をこう言ったそうです。

プロ棋士(米長さんは引退していますが)が
公の場でコンピュータに負ける日は米長さんでないにしても
いつかは必ず訪れるはずだったわけです。

その負けは、これ以上ないくらい良い負け方だと感じます。

米長さんは、確かに負けて「勝った」のです。



将棋好きの人はもちろんですが、
コンピュータ関係の仕事をしている人にお勧めの一冊です。
コンピュータと人間の戦いの最前線を見ることができるでしょう。




記者会見のときの視聴者数のほうが、
対局終了時よりも五万人も多かったという事実は、
あらためてこの一戦への関心の高さをしめしていると思います。


世の中には「おとり物件」「格安物件」というものがあります。
このときは、私が値段表にあげた三人目の棋士が「米長旧名人」でした。
その対局料は1000万円。確かに、羽生と米長を比べたとすれば、
羽生のほうが値打ちはあるだろうけれど、
その価格が70倍違うとすればどうでしょうか。
7億円に比べれば、1000万円は破格の安さです。


将棋盤の前で必要なのは、目から入る情報、耳から入る情報ではなく、
自分の頭の中の思考だけなのです。
外から入ってくる情報すべてを捨て去って、自分の頭だけで考える能力。
それが、プロ棋士に求められる力なのです。


将棋にもそういう局面がある。
先を読む、ということがあまり有効ではない場面があるのです。


保木さんのすばらしいところは、自分の研究開発した
「ボナンザ」をオープンソースにしたということです。


今回の勝負では、勝つか負けるかといったところとは別の次元で、
私が「運のいい人間」になれるかどうかが大事だと考え、
「私を尊敬している人」に目の前に座ってもらうことを要求したのです。


今回のような勝負に際して、「私が負けたらおもしろいなあ」という人と、
「どうしても私に勝ってもらいたいなあ」という人がいる、ということです。
そして、前者は運を悪くする人なのです。
だから、勝負師として、私はそういう人とは徹底して
付き合わないようにするのです。


正直なことを申し上げると、私はもう、正座ができなくなっていたのです。


あなたはいま、若い愛人がいないはずです。
それでは勝負に勝てません。


この日の私はあまりにもまじめで慎重すぎた。
それを戦いの女神は許さなかったということなのでしょう。
隠居に幸せはこない。そのことを思い知らされた一局でした。


言葉を大事にする読売新聞ならではの質問だと思うのですが、
(日本)将棋連盟というところは「どっちでもええやないか」
という団体でございます。


正直いってボンクラーズの研究は一日六時間、
延べ300時間くらいになるのですかね。
相当な時間を費やしましたけど、この努力は、
人間相手に指す場合にはまったく役に立ちません。


敗れたのは米長だが、勝ったのもまた米長である。






engineer_takafumi at 23:46│Comments(0) ★一般書の書評 | ⇒ その他の本

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