2015年11月29日
一流の男になる 松平家の教え
本日は松平 洋史子 氏の
一流の男になる 松平家の教え
です。
本書は土井英司氏のビジネスブックマラソンで紹介されており、
興味をもって購入しました。
本書の著者は、水戸徳川家の流れを汲む、讃岐国高松藩松平家の
末裔である松平洋史子氏です。
書いてあること自体は、普通の自己啓発書とそれほど違いはないのですが、
本書はなぜか、響き方が違います。
つまり、血筋に宿る品格というものが、文章からにじみ出てきて
読者の心をつかむのです。
特に、著者の記憶に存在するお父様の振る舞いには
強く心を打たれました。
他人に、常に凛とした自分を見せることは、単なる自己満足ではなく
他者への思いやりでもあるのです。
さらに、自分に流れている血、つまり先祖に対する
尊敬の念という意味もあるのでしょうね。
個人的には、一流のものに触れるというくだりが
印象に残りました。
マナーや作法を学ぶ時に読んでおきたい一冊です。
表面的な型に宿っている心を知ることができるでしょう。
一流の男になる 松平家の教え
です。
本書は土井英司氏のビジネスブックマラソンで紹介されており、
興味をもって購入しました。
本書の著者は、水戸徳川家の流れを汲む、讃岐国高松藩松平家の
末裔である松平洋史子氏です。
書いてあること自体は、普通の自己啓発書とそれほど違いはないのですが、
本書はなぜか、響き方が違います。
つまり、血筋に宿る品格というものが、文章からにじみ出てきて
読者の心をつかむのです。
特に、著者の記憶に存在するお父様の振る舞いには
強く心を打たれました。
他人に、常に凛とした自分を見せることは、単なる自己満足ではなく
他者への思いやりでもあるのです。
さらに、自分に流れている血、つまり先祖に対する
尊敬の念という意味もあるのでしょうね。
個人的には、一流のものに触れるというくだりが
印象に残りました。
マナーや作法を学ぶ時に読んでおきたい一冊です。
表面的な型に宿っている心を知ることができるでしょう。
戦国時代、軍を率いる大将は、出陣前に一服のお茶を飲んだそうです。
このお茶は大将の心を決する、いわば「覚悟の一服」でした。
一流の芸術や一流の文化に触れ、
「なぜこれらは美しいのか」「一流たるゆえんはどこにあるのか」
を自分なりに解釈してみましょう。
財産をどれだけ持っていかれても、私の心だけは持っていかれません。
手元から「二分」の富がなくなったとしても、
「誰かのために生きる」という喜びは、「二分」以上の価値となって、
あなたの心に帰ってくるはずです。
今の自分は、過去の行ないの結果として存在しているわけですから、
そこに「運」の入り込む余地はありません。
一流の人は、どこにいっても相手に合わせられます。
その場に溶け込み、その場に合った振る舞いができる人こそ、一流です。
私が大学生だったとき、祖母とお蕎麦を食べに行ったことがあります。
「ざる蕎麦」を食べたことがなかった祖母は、
「ひと口ごとに、つゆにつけて食べる」ことを知らず、
そば猪口に入ったつゆを、ざるの上のそばに、すべてかけてしまったのです。
祖母は、店員に声をかけました。「このお皿、漏れているみたい」。
店員の対応は一流でした。祖母の食べ方を正すことはせず、
「申し訳ございません」と謝って、ざるを下げ、
めん鉢にお蕎麦をもり直してきたのです。
失敗や失言をしたら謝るのは、当然のことです。
ですが、「謝れば済まされる」と思っている人は、
何度も同じことを繰り返します。
他人の心の中にいる自分は、カッコよくなければなりません。
それは相手の期待に応えることでもあります。
弱々しい自分を見せれば、相手をがっかりさせます。
人は、自分の間違いを認めたくありません。
しかし、自分の非を認めなければ、
その先の成長や成功はありえないと思います。
間違いを認めない人は、自分を正当化するために、
さらに間違ったことをやり続けてしまいます。
「人に何かしてもらおう」と思うと、他人の目から逃れることができません。
人の評価を意識すると、他者から評価されるための
言動をとるようになります。
「わかったもらうこと」「認めてもらうこと」を求めすぎると、
自分を見失い、人に振り回される人生を送ることになります。
自分で決断できない人生など、生きる意味がない。
男として一番楽しいときは、決断するときである。
「自分にできること」と「できないこと」をわきまえている人は、
一流だと思います。
約束時間の直前に到着しては、汗がひかないまま、
相手と会うことになります。
見苦しい自分を見せることは「カッコよさ」を志向する父にとって、
許し難いことだったはずです。
私は「お座りをして、お膝に指をついて」といわれるままに
「形」を覚えただけで、3本指を立てる理由を考えたことはありません。
ですが、その繰り返しの中でお辞儀の意味を理解し、
相手を尊ぶ気持ちを育て、父への敬愛を深めていった気がします。
丹田は、心と体の「重心」です。
松平家では、歩くときも、座るときも、「丹田」を意識しています。
丹田を意識すると、身体の軸(芯)ができます。
上半身は力が抜けて自由に動き、下半身は安定するため、
スマートな姿勢を保つことができるのです。
「腹を割って話す」「腹に据えかねる」「腹におさめる」
といった言葉があるように、元来、日本人は、
物事を腹(丹田)で考えてきたのかもしれません。
「語尾」の「ます」に思いを込めるのが、一流の挨拶です。
相手が使った言葉をそのまま受け入れて、同じ言葉を使うことが、
相手に対する一流の気遣いです。
感謝を伝えたいときは、
「すみません」を「ありがとう」に換えてみましょう。
父は常に、隙のない身だしなみを心がけていました。
朝、背広で出かけても、夜に大事な会食があれば、
シャツだけ着替えるために一度家に戻ります。
夜着用するシャツには、昼よりもさらに糸の縒りが細かい
素材が適しているからです。
虚栄心としての見栄は、捨てたほうがいい。
けれど、本気で見栄を張り、体裁を取りつくろっていれば、
次第に心が整うこともあるのです。
人に教えてもらうことは、弱いことではありません。
むしろ、「教えてください」といえない人こそ、弱い人だと思います。
「場を制する」よりも、「場の雰囲気が変わる」ことのほうが、
ずっと大切なのです。
「薄く切るくらいなら、羊羹は出さない」のが、松平家の作法です。
自分が貧しくても、見栄を張って、羊羹は厚く切ります。
貧乏とは、お金がないことをいうのではありません。
「人のために何もできない(しない)こと」です。
たとえ、自分の「懐」にお金がなくても、
心の「懐」に相手を思う気持ちがあれば、
心の込ったおもてなしができるはずです。
美しいものを見ることは、自分の感情を抑制する一番の特効薬です。