2017年01月10日

ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。

本日は
ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。
です。
ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。

本書は書店で表紙を見て、気になって購入しました。

本書は恋愛や家族関係に悩む
女子高生児島アリサの元に、
ニーチェ、キルケゴール、ショーペンハウアーなど
実存主義哲学の巨人達が現代人の姿になって
現れるというストーリーです。

哲学の巨人達が、個性的な現代人に転生して、
軽いノリで哲学の本質を語っていきます。

ストーリーが会話中心で進められて、
比喩も現代風にアレンジされているので、
とても読みやすかったです。

また、京都という設定も良いですね。
著者が京都出身なので、リアリティのある
風景描写も楽しむことができました。


学問としての哲学は非常に難解ですが、
本来哲学とは、難しい学問でなく、
人が生きる指針となってくれるもののはずです。

そういった意味で、現代人に『哲学する』方法を
教えてくれる本といえるでしょう。

個人的には、サルトルによる、
『嘔吐』の解説がわかりやすく印象的でした。


気軽に哲学を学びたいという人に
おすすめの一冊です。
小説を楽しみながら、どうやって哲学の考え方を
日常に取り入れていくかが、わかることでしょう。




むしろ"自己中じゃない自分の方がいい!"とする風潮に
疑問を持つべきだとすら思っている


「合理化?合理化って具体的にどういうこと?」
「つまりだ。欲しいものが自分に手に入りそうにも
ない場合、"そんなものよりもっと大切なよいものがある"と、
欲しかったものの価値を低く見たり、
悪いもののように扱う経験だ。
童話の『すっぱいブドウ』にもあるだろう」


明るい教えをひとつ教えてやろう。
『祝福できないならば呪うことを学べ』


いろんな価値観、いろんな視点があるということは、
逆に絶対的な"正解"がないということだ。
つまり、絶対的な"幸福"という答えやゴールが
現代においてはないのだ


たとえ同じような苦しみ、辛い出来事が繰り返されるとしても
"それがまるごと自分の人生だ"と受け入れられること


人が何かを"悪"だと思うことは、
たいがい妬みや嫉妬からきている。


"自分は無欲だから、欲しいものが手に入らなくても別にいいやー"
と暗示をかけて、挑戦せず、周囲に対して批判的に無気力に生きる。


もっとシンプルに子供のように、
欲しいものを"欲しい!"と素直になればいいのだ。


どこかに遊びに行ったから、写真を撮ってSNSに投稿するのか。
それともSNSに投稿する目的ありきで
どこかに遊びに行く予定を立てるのか、
たまにどちらかわからなくなる。


僕は、神がいるかどうかを"実証"することには興味がない。
ただ、自分が生きる上で神を信じた方が、
生きることに真剣に向き合えると思う。
だから僕は神を信じたいし、信じている。


自分の中の意見を追及せず、一般的にいいとされるものに
流されてしまう人がほとんどという時代です。
そこには感動もなければ、個性もない。


大衆からすると、個性を持って、何かに情熱を注ぐ人がいても
大衆とずれていたら、あいつ変だよなって、
軽蔑されてしまう時代です。


自分の人生ではなく、他人の人生を妬むことに
時間を費やしてしまっている。
情熱をもって生きないと、自分の人生は妬みに支配されてしまう―。


例えば"仕事を辞められない"と嘆いている男性がいるとしますよね。
彼は、辞められないのではなくて"辞めない"
という選択をしているだけです。


うまくいく可能性を描いているからこそ、
うまくいかない可能性があることに不安を感じているのです。
不安というのは、なにもよくないことではなく、
可能性があるということの表れでもあります


不安から逃れたいという目的で、道を選んではいけません。
不安と誠実に向き合う。
不安に左右されて、自分を騙してはいけません。


欲望が生まれると苦悩にさいなまれる。
そして欲望が満たされると、退屈という苦悩にさいなまれる


客観的な半分、つまり富や名声を追い求め、
他人の価値観に従って生きるよりも、主観的な半分、
つまり自分自身の内側にある感性を磨く方が、
効率的に幸せを感じることが出来る。


人間はわかりやすい外的なもの、つまり金や名声、
贅沢品などを追い求めがちだが、精神性が伴っていないと
結局それらによって身を滅ぼすこともある


他人の目に自分がどのように映っているか、
他人の意見に高い価値を置いてしまうということは、
自分が持つ狂気の一種だ。


サルトルさんは"目に見える存在しているという事実"と
"なんのために存在しているのか"を
分けて考えられているんですね


道具は、理由あって、存在する。
つまり、本質あって、実存するのだ。
しかし人間は違う。
理由があらかじめ用意されていて、存在しているのではない。
まず、生きている、存在しているという事実があるのだ。


"自分はなんのために生きているのか"に悩むということは、
そもそも生きている理由が用意されているからではないからだ


私たちは、目の前のものをそのまま直視しているのではなく、
言葉によってカテゴリー分けをし、認識しているというわけだ


この肉を見てみろ。
深く考えなければ"お肉だー美味しそう!"となるだろう。
しかし、この肉を一時間まじまじと直視してみろ。
序々に"これなんなんだろう"と奇妙なものに思えてきて、
食べたくなくなるはずだ。


私なりの言葉で話すと
『人は自由の刑にさらされている』
『人は自由に呪われている』のだ


自由は自己責任という話は、個人に限ったことではなく、
自分自身の選択が、社会全体、人類全体に
責任を持つものと考え、選択するべきなのだ


"恥"を持つことによって、自分の世界の中で、
自分がモノ化してしまうのだ


人は存在理由や存在価値を明確に
したがる生き物でもあるのです。


死を想像する時、私たちは自分の死を直視することは稀で、
どこか他人事なのです


私たちは、私たちの人生を生き、死んでいく。
誰かに代わりに死んでもらうことは出来ない。


死をもってでしか人は自分の人生が、
自分がどのようなものであったかは断定しかねるのです。


人が死ぬ方がいいのではないかと考える時は、
"現状よりもっと長く生きないといけない"といった
理想や強迫観念が心の奥にある場合がほとんどでしょう。
死を望んでいるというよりも、生きることのしんどさと、
死ぬことを天秤にかけた時に、
死ぬことの方が楽に見えているだけで、
心底死を望んでいるというわけではないことが
ほとんどなのではないでしょうか


自分が望む、望まないにかかわらず
この世に投げこまれ、存在しているのです。
そして、そこから人生はスタートします。
強制的にスタートするのです。







engineer_takafumi at 01:47│Comments(0)TrackBack(0)★一般書の書評 | ⇒ 勉強・教育・心理

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