2017年03月03日

そして、暮らしは共同体になる。

本日は佐々木俊尚氏の
そして、暮らしは共同体になる。
です。
そして、暮らしは共同体になる。

本書はこれからの時代の価値観を知る上で、
重要な本と聞き、興味を持って購入しました。


佐々木さんの本はこれまで何冊か読んできましたが、
切れ味が鋭いシャープな本、という印象があります。

一方、この本は料理のレシピが埋め込まれているなど、
生活臭が出ていて、かなりゆるい作りになっています。

なぜ、こうなるのかというと、
時代はそんな風に日常の生活を重視する方向、
そして「ゆるい」方向に向かっているからなのです。

例えば、国家権力や大企業の陰謀など、
組織に対抗して解放されるという思想は、
十分に自由と知識を得てしまった現代では成り立たず、
むしろ、自由になりすぎた人間がゆるい共同体を求める
といった時代に変わってきているのです。

「物語消費」「社会貢献」「ミニマリズム」という単語が
現代のキーワードになってきていると思いますが、
それらがつながった感覚になれました。

全体的にはゆるく作っていますが、
ここぞという時は、鋭い分析で時代を切ってくれます。

個人的には、
パーソナライズとプライバシーを両立させるためには、
コミュニティーを間に挟まなければいけない、
という部分が印象的でした。


これからの時代を読みたいと思う
マーケターなどにおすすめの一冊です。
たくさんの具体例から、時代が変わっていく方向を、
感じることができるでしょう。






添加物についてはかなり厳密な規制がかけられていて、
危険なものはほぼ排除されています。
大量生産しているパンにカビがはいないのは、
添加物のためでなく、非常に清潔な工場で
無菌状態に近いかたちで製造されているからです。


伝統食品に回帰すると、今度は高血圧や胃がんのリスクが
高まってしまうということが起きます。


オーガニック栽培にとりくんでいる農家の人たちは
「美味しい野菜をつくりたい」と心がけ、
消費者の安心や安全を求める願いに
答えようとしている方たちばかり。
だから結果として、
オーガニックという冠をつけて売られている野菜は、
美味しいことが多いということになるのです。
結論は同じだけど、因果関係が違う
ということなんですね。


哲学者ハンナ・アーレントは、
アイヒマンを「凡庸な悪」と形容しました。
悪は悪人が作り出すのではなく、
思考停止の凡人がつくるのだ、と。
つまりアイヒマンは凡人で、
当時の官僚組織や法律や規範にもとづいて
粛々と行動しただけだったということを
指摘したのです。


これはまさに、オーガニック原理主義に当てはまることです。
「大衆は汚染された野菜を食べさせられていて騙されている。
わたしたちだけが食の真実を知っている」
という発想がつねにあるから、
どうしても陰謀論に突っ走ってしまうのです。


『反消費社会』を消費して
『消費社会』がさらに成長していく


クールになりたいからアウトサイダーに憧れる。
それが消費社会に取り込まれて大衆化すると、
もうクールじゃないと思われてしまう。
また新たなクールなものを探してまわる。
このくりかえしというのは、まさに記号消費的であり、
大衆消費そのものであるんですよね。


気がつけば、「上へ」も「外へ」も、
どちらもぐるりとまわって同じ立ち位置に
なっているということなのです。


野菜に名前をつけ、新たな物語を与える。
これが消費者に受け入れられる。
ネット販売なのに、現物も見ずに、売れていく。
ここには野菜のあたらしい消費のかたちが
生まれてきているようです。


21世紀になっても「きれいな形でなければ売れない」
「規格から外れたものは好まれない」
というような戦後の神話が、
まだ農業の世界には色濃く居座っています。


もはや忘れ去られていますが、
多くの家庭では野菜が合成洗剤で洗われていましたし、
食卓ではうま味調味料が料理に
山ほど振りかけられていました。


土のにおいがして自然に近いものは
「古くさい」「田舎くさい」と忌避され、
人工的で化学的なものの方が
「未来ぽくって進歩的」という理由で好まれていたのです。


わたしたちの売っている野菜をめぐって
会話が生まれているってことでは?


いまの美食の潮流って、
完全にエンタテイメントになってきています。


最近、インターネットでは料理の動画が
たいへん人気を集めていて、これも新たな物語消費です。


ハレ(祝祭)とケ(日常)という有名なことわざがあります。
いまはハレよりもケの重要さが
高まっている時代といえるでしょう。


食に気を遣いすぎると、「オーガニックじゃなきゃダメ」
「化学調味料は絶対つかわない」「手を抜いちゃダメ」と
どんどん過度に行きすぎてしまい、
自縄自縛になって自分で決めたダメが多くなり、
日々の料理がまったく楽しくなくなってしまう。


いっさい農薬も化学肥料の認めないというように、
先鋭的に食を求めてしまうと、
逆に閉ざされた世界になってしまって、
輪が広がっていかない。


「ガチガチじゃない」というゆるゆる感覚が、
いまこそ大切なのだと思います。


成城石井は富裕層を相手にしているわけではなく、
客層は決めていないんです。


成城石井で売っているワインは、
1500円から2000円ぐらいが中心です。
チーズやお惣菜は、先ほども書いたように1000円くらいです。
そしてこの価格は、実は街のフレンチビストロで
食べる皿やお酒と同じ。


さて、この三拠点生活で私が会得できたものは
あったでしょうか。いくつかあります。
まず第一に、移動の自由が楽しめるようになったこと。
第二に、びっくりするほど所有するモノが減ってきたこと。
第三に、人間関係のネットワークが多層化してきたこと。


身体を鍛え、所持品を少なくして身軽になると、
移動はとても楽しくなります。


ミニマリズムを実践していると、
「自分は必要なモノを過不足なくすべて持っている」
という自覚が生まれ、
メディアの過剰な情報に煽られることがなくなるそうです。


都市は木々に囲まれた生活よりずっと環境によいのだ。
森に住めば、自然に対する愛情を示すには
いいかもしれないが、実はコンクリートのジャングルに
すむ方がはるかに地球に優しい。
(中略)
自然が好きなら、自然に近寄らないことだ。


いまの東京は砂漠ではなく、緑が育ち、
住みやすい静かな街へと変わっています。


外に出たらみんなひとりなんですよ。
だったら、家にいるときぐらい仲間がいてほしい


新しい21世紀の時代状況の中で、
新しいネットワークの重要性が増し、
いってみれば「横へ、横へ」と網の目のように
人間関係を広げていく方向性が求められているのだと思います。


テクノロジーが発達してくると、
こういうガジェット類は淘汰されていきます。
「存在がなくなる」のではなく、伴走者となり、
やがて伴走者の存在も意識しなくなり、
「存在が見えなくなる」のです。


充分に発達した科学技術は、魔法と見分けが付かない


あなたはフェイスブックの顧客ではない。商品なのだ。


萌える人でないと、萌えさせられないんです。
それと同じで、共感できる文化をつくっていくためには、
徹底的にインナーサークルで同じ感覚の人間を集めていって、
そこでの共感を非言語的に共有して、
いっせいに動くというようにしないとだめなのです


ここにきて思うようになったのは、
企業が価値を提供するのではなく、
企業とお客さんが価値をともに創る
時代になるということです


同じインターネットのショッピングサイトであっても、
あくまでもプラットフォームに徹して
大きな規模を狙うビジネスと、
プラットフォームのうえに上澄みのように
重なってくる文化を大事にしようとするビジネスと、
二種類があるということなのです。


記事や動画は個人に向けて最適化されるのではなく、
どのような記事や動画を読者がみんなと共有したい
と考えているかということに、
フォーカスしていかなければなりません


「ビッグデータによって情報が絞り込まれ、的確に届くということ」と、
「わたしたちのプライバシーが侵害される感覚にならないこと」
この二つの真逆の方向性を解決するには、
共同体という概念を間にさしはさめばいいのです。


大衆消費社会こそが個性を多様にしたのです。


個性的であろうとすればするほど、
世の中には個性的な人だらけになって、
逆に目立たなくなってしまうという矛盾。


個性的であること、独自であることが、
マス(大衆)になってしまう


解放は目的ではない。
解放されても問題が解決しないことがわかってしまえば、
解放が目的にならないことが認識されてしまう。


21世紀には人はひとりの個人として生まれ、
属している共同体は目の前にはありません。
だから自分で帰属する共同体を探し求めなければ
ならなくなったのです。


憧れる立派な何者かになるために自由を求めるのではなく、
好きな人たちと一緒にいられる、
そういう生を実現することこそが大切ということなのです。






engineer_takafumi at 17:37│Comments(0)TrackBack(0)★一般書の書評 | ⇒ ビジネスその他

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