2017年07月01日

自分の中に孤独を抱け

本日は岡本太郎氏の
自分の中に孤独を抱け
です。
自分の中に孤独を抱け (青春文庫)

本書は岡本太郎の『自分の中に毒を持て』シリーズの
最終章としてまとめられています。

いつもながら、岡本太郎の言葉はストレートで
情熱的で心をかき乱します。
何かにチャレンジするための後押しとして
これほど良い言葉はないでしょう。

自分が深く共感したところだけ取り出してみても、
青春は実は暗い、
人間には「自分自身」などという実体はない、
「芸術家」って意識をもった瞬間に、芸術じゃなくなる、
世界を見ようとすると、逆に自分の目を凝視してしまう、
など、超重量級の言葉のパンチが満載です。

本を読んでいるのに、実際の言葉を聞いているような
臨場感を得られることも素晴らしいですね。


進学や就職など、人生の分岐点にいる人に
おすすめの一冊です。
これからの人生に向かう勇気をもらえるでしょう。




人間は、孤独になればなるほど人間全体の運命を考えるし、
人間の運命を考えた途端に孤独になる。


孤独と単独はちがう。
孤独であるってことは、全体であるということ。
単独はそこから逃げちゃうこと。


憎まれて結構、好かれて結構。
そもそも、好かれるより悪口を言われたほうが
世の中は動くんだよ。


謙譲の美徳、つまり「私なんか…」
なんていってるところには、いかなる真実も生まれない。
「私なんか…」と言うことで責任を他人に押しつけ、
自分は逃れようとしているわけだからね。
そこにあるのは、いつも「だれかが―」であって
「自分が―」じゃない。けっきょくだれも責任をとらない。


ぼくの考えはまったく逆だ。
制約の多いところで行動することこそ、
つまり成功が望めず逃げたくなるときにこそ、
無条件に挑む。
敗れるとわかっていても、己をつらぬく。


成功者よりも成功しない人間のほうがはるかに充実していける。
だから、未熟ということをプラスの面に
突き上げることが人間的であり、
すばらしいことだと思うべきなんだ。


どこか無理をしている。自分自身とズレている。
そのズレに青春の気負いがある。
むしろこの不自然さ、
ピタッと身についていないところにこそ、
若者のおしゃれの特徴があるとさえいえるだろう。


原始社会に多くある例だが、
肉体的に衰え、「老い」を自覚した老人は、
自分で姿を消し、静かに去っていく。


グリーンランドの、アンマサリクのエスキモーたちは、
自分が共同体にとって重荷であると感じると、
自殺する習慣があった。


ある夜、彼らは公衆の前で一種の懺悔を行い、
二、三日後にカヤック(海豹の皮製の船)に乗って
帰らぬ旅へと出発する。
カヤックに乗ることのできない病人が、
海に投げ込んでくれと頼んだ。それが他界に移る最短の道。
彼のこどもたちはそれを実行したが、
衣服のために彼は浮かんでしまう。
すると彼をとても愛していた娘のひとりが優しい声で言った。
「とうさん、頭を水に突っこみなさい。そうすると道がもっと近くなるよ」


自分自身を平気で見つめることのできない人間、
自信を喪失している人間は、
他人の判断のなかにある「誤解」のほうが、
じつは自分の実体なのではないかとひそかな恐怖感を持っている。


人間には「自分自身」などという実体はない。
自分とはいつでも他に対する存在であって、
自分自身、他に映る自分の像、そのかねあいにおいて自分がある。


ぼくは、誤解されたほうがいい、
誤解されなければならない、と考えている。
誤解がこのかねあいの幅をぎりぎりとひろげ、
自分で思ってもみなかったスケールにそのひとを追い込み、
ひらくからだ。


青春はあかるく希望に満ちていると言われるけれど、
純粋な者にとって青春はとても苦しい。
ごまかす者、にぶい者にはいいかもしれないが、
ごまかし得ない人間には猛烈に暗い時代だ。


みんな若い時代はあかるいと考えているけれど、
青春って、じつは暗いんだよ。


働ければ食えないなんて、不自由な、
奴隷的で卑しい生き方を考え出した奴は
ケシカランと、つくづく思うね。


男性的男性の弱さを、女は本能的に見抜いている。


没落する者には無慈悲な黙殺しかない。
オットセイの話とは皮肉な対照だが、人間の場合、
新しい力に意地もなくやすやすと
寄りそってしまうのは男の方だ。


もちろん偉大な成功者は根性のひとだったかもしれない。
しかし一方では、
根性をつらぬいたがゆえに敗れたひとだっている。
むしろ純粋であればあるほど、
この世界では敗れざるを得ないんだ。


「死のシゴキ」事件でも、
逮捕されたリーダーの態度が象徴的だ。
後輩を叩き殺すほどシゴキあげることが、
"根性を鍛える"との信念をもっていたなら、
最悪の結果が出たとしても、
責任者として毅然としているべきじゃないか。
ところが警察の取り調べに対して、はじめのうちは
「鍛錬するために少しなぐっただけだ」と弁明し、
厳しく追求されると「自分だちだけではない」
と責任を分散させている。
負い目のときこそ根性を生かすべきなのに。


「愛国心」なんて、いちおう景気のいい言葉だけど、
それがどういうものなのか、
案外わかっていないんじゃないかという気がする。
身びいきだとか、狭い、本能的な排他心が露骨にあらわれて、
ひどく"ひいきの引き倒し"になる。


ぼくの知るかぎり、中国人に対する憎しみはあまりなかった。
あたりまえだ。一方的に侵略していっただけなんだから。
それよりも、友同士 ― 連帯単位では他の連帯を、
その内部ではまた中隊、小隊、分隊同士、折にふれて猛烈な、
ほとんど憎悪と言っていいほどの対抗心を燃やしていた。
陸軍と海軍の徹底的な非協力、憎しみあいも有名な話だ。


「愛国心」と美名をうたっても、ほとんどがそういう
狭い意識や郷党意識の延長なんだよ。
身内以外は敵視する、などという排他的な心情のなかに、
ほんとうの愛があるはずはない。


世界があってはじめて「自分の国」という現実、
その意識がある。
あくまでも世界のなかの日本なんだ。


「芸術家」って意識をもった瞬間に、
芸術じゃなくなるってことだ。


だれのために描くのか、
すなわちなにを描いたらいいのかがわからなくなって、
絵描きたちはとても悩んだ。
そして最後に出てきたのが、絵画 ― 芸術とはなんぞや、
という問題だった。
この問題を自分の責任においてとことんまで突っ込み、
社会や人類に対してこれだという
ひとつの答えを出さなければ絵が描けない。
こうして絵画は芸術になった。


なるほど日本は戦争に負けて、
あかるい近代民主国家に生まれ変わった。
だが社会制度が一新されたと言うけれど、
道徳律や生活感情、その因習的な気配、
古キズはまだ生々しく口を開いている。


傑作だとか駄作だとかいっても、
それはもはや作家自信ではなく
味わう側の問題だということになる。
すなわち鑑賞する、味わうというのは、
じつは価値を創造することなんだよ。


世界を見ようとすると、逆に自分の目を凝視してしまう。
じっと自分の奥深くを見つめると、
やがてそれはとうぜん自分を生育し形成した
特殊な諸要素につながらざるをえない。


それは日本主義とか国粋主義とは遠く、
むしろ正反対のものだ。
日本人としてのパティキュラーな存在の自覚。
その特殊性を徹底的につかまない限り、
世界を強く、実体的に見返すことはできない。


自分が自分自身になりきること。
でなければ「世界人」のつもりでいて、
じつは空虚なコスモポリタン、
根を失い浮きあがった永遠の旅行者になってしまう。


日本を、そして自分の根源を知ろうという情熱は、
滞仏生活を切りあげる動機の大きなひとつだった。


キミはキミのままでいい。
弱いなら弱いまま、誇らかにいきてみろよ






engineer_takafumi at 19:03│Comments(0) ★一般書の書評 | ⇒ 自己啓発

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