2017年10月25日

仕事に効く教養としての「世界史」II

本日は出口治明 氏の
仕事に効く教養としての「世界史」II
です。
仕事に効く教養としての「世界史」II  戦争と宗教と、そして21世紀はどこへ向かうのか?

本書は歴史の知見が深いことで有名な
ライフネット保険の創業者である
出口氏による「仕事に効く教養としての世界史」の続編です。

本書はイスラム社会やインド、ラテンアメリカ、アフリカなど、
前著で深く取り上げなかった地方に焦点を当てています。

これから経済でも文化でも
これらの国々の存在感が増していくでしょう。
しかし、勉強する材料が西欧に比べて少ないので、
とても重宝する一冊になります。

単に教科書のように史実を淡々と書くのではなく、
どのような意図でそれが行われたのか、
そして出口さんの考察も述べられていて、
あらためて歴史を考えるきっかけになりました。


個人的には、
イランが歴史的にシーア派である理由を理解できたことが、
一番の収穫でした。


歴史に興味がある人にはお勧めの一冊です。
スポットライトが当たり難い地域の情報を
補完することができるでしょう。





さほど地味の豊かでないオーストリアの
支配者であったハプスブルグ家は、
ヨーロッパ有数の豊かな地域を、
結婚によって得たのです。


カール五世は帝国議会にルター派を禁止する法案を提出しますが、
ルター派の諸侯とドイツの都市がこれに激しく抗議しました。
そしてルター派のキリスト教徒たちは、
「抗議するもの」としてプロテスタント(Protestant)と
呼ばれるようになります。


人間がつくったものは、総じて人間に似ていると思います。
つまり王朝も企業も宗教も、それを創始した人間の人生を
ある程度までは反映していると思うのです。


ムハンマドは、イエスやブッダとは全く異なる
普通の市民として、新しい宗教を興し、
国を興して死去しました。
彼の生き方が示すように、彼のつくった宗教は
わかりやすく合理的、商人的でした。


イエスの死後、新約聖書がつくられるまでに
50〜60年の時差があるということは、
当時の人生はだいたい20〜30年が一世代でしたから、
イエスと面識のない人間が福音書を書いたということになります。
ですから、福音書に記述されていることが、
本当にイエスの言葉であったかどうか、
裏付ける証拠はありません。


いま僕たちがなじんでいる法華経や浄土三部経などの
多くの大乗経典は、ブッダの死後500年後ぐらい後に書かれています。
そこにはブッダの面影はほとんどありません。
名も知られていない多くの人々が
大量の大乗経典を自由に創作したのです。


クルアーンは、ムハンマドの死が632年で、
第三代カリフ、ウスマーンによる編集が650年ですから、
その間、わずか、18年です。
(中略)
したがってクルアーンには、異本は一冊もありません。


フサインの忘れ形見の子どもは、
ムハンハドとアカイメネス朝以来のペルシャ王朝の
高貴な血を受け継いでいることになります。
この血筋がシーア派のイマーム(指導者)となりました。


人間が何百歳も生きるはずがないという近代科学の教えもある。
しかし人間の歴史を見ると、
アダムやイサクやアブラハムは何百歳まで生きたと書いてあるので、
イマームが生きておられると考えることも、
あながち荒唐無稽な話ではない…。


イラクのフセイン大統領は、中国でいえば、
軍閥の頭目のような存在であったと思います。
目茶苦茶ではありましたが、
まがりなりにもイラクをまとめていました。
フセインが生きていたら、おそらくISは生まれなかった。


イスラム教にはプロのお坊さんがいません。


仏教は、本来は偶像崇拝禁止の教えでした。
その代わりに、仏足石や仏教の教えを輪にたとえて法輪と呼び、
それを拝んだりしていました。
しかしクシャーナ朝の時代に仏像が登場します。


ヒンドゥー教徒とイスラム教徒が連合王国に対して
統一戦線を組めていたら、さすがの連合王国も
あそこまでインドから搾取することは不可能であったかもしれません。


エジプト人独自の王朝はだいたい新王国までで、
そのあとはリビュアのベルベル人やヌビア人、
アッシリアやペルシャが支配する王朝になっていきました。


アレクサンドロスの後継者を自任したのはプトレマイオスでした。
一般に覇権が移行するとき、
前の君主の葬儀を取り仕切るものが新しい覇者になります。


いつの世の中でも平和を金で買う政策は、人気がありません。
南宋がスタートしたとき、宰相の奏檜は彼我の軍事力を考えて
戦争しても金には勝てないと判断しました。
(中略)
これに対して岳飛という将軍が猛反揆します。
(中略)
危険を感じ取った奏檜は、岳飛を罠にはめて殺してしまいます。
こうして奏檜は誕生したばかりの南宋を救いました。


キリスト教のくびきから人間が近代的自我を取り戻すまでの
500年がルネサンスであったと。
そしてその契機となったのが、イスラム世界から
ヨーロッパに3つのルートで里帰りしてきた
ギリシア・ローマの古典・古代の文化であったと。


スペイン人は先住民のインディオたちに、コカの葉を噛ませました。
(中略)
麻薬ですから、一時的に元気になります。


新大陸のインディオたちはスペイン人を初めとする
旧大陸の人々の酷使と虐待、
そしてなによりも病原菌によって、
バタバタと死んでいきました。
少なく見積もっても4分の3、
中には90%が死滅したという説もあるくらいです。


白人たちが鉄砲を持って海岸線から奥地に入り込み、
先住民を脅して無理矢理連れてくる、
そのようなアフリカの奴隷狩りは実はあまりなかったのです。
仲介人となる黒人たちが存在したのでした。


アフリカをヨーロッパ列強が植民地にしたのですが、
資源は豊かでも酷暑のアフリカに
ヨーロッパ人は住み着きませんでした。
このアフリカの地理的条件が、
高原地帯が多くて暮らしやすい土地がたくさんあった
ラテンアメリカと大きく異なる点でした。


プロセインはナポレオンの占領下にはいったことで
亡国の危機に見舞われましたが、
一方でナポレオンによってもたらされた、
フランス革命の精神とネーション・ステイト(国民国家)
の思想に深く共鳴します。


フランスは、ローマ教会派の国でありながら、
三十年戦争のときにプロテスタント勢力を利用して、
ドイツを弱体化させようとした国です。
そのフランスと同盟したハプスブルグ家は、
全ドイツの人々に釈然としない感情を抱かせてしまった。
(中略)
ナポレオンが登場して、ドイツの民族意識が高揚するまでは、
ドイツの盟主はハプスブルグ家であると誰もが疑わなかったのです。


大英帝国は、自分に代わって極東の地で
ロシアと戦ってくれる存在を探していた。
良き傭兵はいないかと。日本がそこに登場したわけです。
ついに大英帝国は19世紀後半の非同盟政策
「栄光ある孤立」を捨てて、「日英同盟」を結びました。


ビスマルクは社会保険の父でもあったのです。
彼の政策は、ドイツの勤労意欲を高めたのではないでしょうか。
ビスマルクは「ドイツのためなら」右とも左とも
平然と手を結べるリアリズムの持ち主でした。


第一次世界大戦後のドイツについて
考えるときの大切なポイントは、
ドイツ国内に敵兵が一兵も入っていなかったということです。
国内の厭戦気分で革命が起こって、ドイツは休戦したのです。
ロシアには勝っている。
英仏米軍もドイツ国内には入っていません。
(中略)
クレマソーの強欲と怨念によって、
1対9もしくは0対10ですべてドイツが悪い
ということになってしまったのです。
このヴェルサイユ条約の過酷さが、
ナチスの主張を根拠付ける素地となりました。


第二次世界大戦におけるフランスの死者は、
第一次世界大戦ほどではありませんでした。
両国にとって遺恨となるのは、
なんといっても第一次世界大戦のほうなのです。


簡単にアメリカは揺らぎません。
なぜかといえば、アメリカは人口が増えるからです。
いまは3億数千万人ですが、
やがて5億人になると予測されています。
ヒスパニックなどの出生率が高いからです。


ローマ帝国が少しずつ壊れていく過程は、
アメリカが弱体化していく過程と似ている。
したがって次に来るのは中世である。
(中略)
しかし、中世の始まりはローマ帝国の道路網(≒情報網)が
ズタズタにされたことが主因でした。
世界の情報がローマ帝国の中枢に集まらなくなったのです。
これに対して、アメリカを中心としたインターネットなどの
結びつきはむしろ強化されているのではないか。






engineer_takafumi at 20:40│Comments(0)★一般書の書評 | ⇒ ビジネスその他

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