2017年11月09日

経済数学の直観的方法 マクロ経済学編

本日は長沼 伸一郎氏の
経済数学の直観的方法 マクロ経済学編
です。
経済数学の直観的方法 確率・統計編 (ブルーバックス)


本書は物理数学の直観的方法の著者である
長沼氏が経済数学について書いた経済数学の入門書です。

経済学は実際のところ理系顔負けの数学を
使っているらしいのですが、入学するのは文系の方です。

だから、物理数学以上にギャップが大きいと考えられます。
そこで、登場するのが本書です。

私は経済学の知識がないので、
そちらでついていけない部分もありましたが、
関数の最大値、最小値の問題を
経済学はこのように捉えているのだ
ということがわかり、面白かったです。

また、終わりの方に、
微分方程式や固有値の記述もあります。
悩んでいる人にとってはお宝かもしれません。


すでに理解できているところだと、
冗長に感じる部分もあるかもしれませんが、
新しい感覚を1個でも得られたら、
確実に価値のある一冊だと思います。


個人的には
位相空間の話のところで「lim f(xn)≠f(lim xn)」
に関しての記述が面白かったです。
思わず笑ってしまいました。


経済学で数学を使っている学生、
理系で経済学に興味がある人にお勧めの一冊です。
形式ではなく、本質を理解できるでしょう。





ニュートンの体系は扱う天体が2個だけ、
つまり例えば「太陽と地球」「地球と月」などのように
2個の天体同士の関係を扱うだけなら、
その問題は完全に解けて何万年後先まで
正確にその位置を求めることができる。
ところがこれが「太陽、地球、月」などのように
3個の天体を同時に扱うとなると、
もう問題は解けなくなってしまい、
大まかな値しか求めることができなくなってしまうのである。


ケインズの大づかみの理論を「マクロ経済学」、
均衡メカニズムを基本原理として下から積み上げていくものを
「ミクロ経済学」として両者を分離し、
前者は製作現場で実戦に使えるが、
後者のミクロ経済学はアカデミックな世界の
実験室の中でのみ使える。


日本経済が最強だった時期は、
ケインズ経済学が世界を制していた時期と奇妙に重なっているが、
その時を振り返ってみると、
当時は必ずしも政策担当者だけでなく
中小企業の経営者あたりに至るまで、
ケインズ経済学というものを程度の差はあれ、
皆が広く教養として知っており、その下支えが、
当時の日本経済が自信をもって行動する
大きな助けになっていたように思う。


「フェルマーの原理」とは一体どんなものだろうか。
それは「光は、その経過時間が最小になるような経路を選んで通る」
ということである。


物理では世界観の一つとして
「この宇宙の全ての粒子の位置と速度がわかれば
世界の全てがわかる」というものがあり、
xとx'はまさに「位置と速度」であるため、
本来この変数のペアはそれとのなじみも良かったと言えるが、
とにかく物理の世界ではこのことはそれほどに
重要視されているのである。


インフレが企業活動に与えるプラス効果というものは、
じつは企業家の「期待」、つまり「インフレが今より上がる」
という予測に基づいて、
周囲に先んじて行動することが本質になっており、
しかもその予想が、周囲を出し抜いた形になっているときに
その効果が発生する。


大学院の動的均衡の問題の場合、2種類の製品x,yのかわりに
「今日と明日」の2つの間で極大化を行っており、
それゆえに静的な問題が「動的」になっているのである。


実際のマクロ経済学ではラグランジュアンだけで
ほとんど話ができてしまい、
ハミルトニアンについて知らなくても
現場では大して困らないようである。


ラグランジュアンは「何かを最小化する」という
思想からスタートしているのに対し、
ハミルトニアンは「何かを常に一定不変にする」という
思想がベースとなっている


これがいわゆる「微分方程式」の発想である。
これは全く画期的な手法で、
人類が物事の「未来位置」を知る本格的な能力を手に入れたのは、
まさにこの時だったのである。


中学や高校で学んだいろいろなタイプの方程式では、
多くの場合、解として求まるのは
単なる数値であるのが普通だった。
しかし微分方程式の場合、解そのものが1個の関数の形で、
まとまった1つのパターンとして与えられる
ということが大きな特徴である。


西洋数学ならそれ1個を覚えれば良いのだが、
和算の場合、鶴亀算や植木算などそれぞれ別の理論として
いちいち覚えねばならず、簡略化ということが
不十分にしか行われていなかったのである。


例えば現在の中学の数学に出てくる代数の数ページ分の内容が、
中世には10冊分ぐらいの分厚いものだった
とう話を聞いたことがある。
しかしそのように簡略化が行われたことで、
かえって素人目にはあまり高級な学問に
見えなくなってしまうという、
ある意味で皮肉な現象も同時に生じてしまうのである。


記号の簡略化は、時に難しい方程式を解くより
大きく数学を発展させることがある


物理や数学の世界では、過去にそうした滑らかな連続関数を使って
多大な成果を上げてきたが、それをほぼやり尽くした時、
それまで手をつけずに来た不連続な関数、
つまり突然ある点で0から1に階段上にジャンプしたりするような、
デジタル的な関数の領域に進出せねばならなくなった。


もしある不連続な関数がどういう性質を持っているのかがわからず、
どう攻略して良いかもわからないときには、
まずそれに似た連続関数で、すでに性質がわかっているものを
いつくか用意するのである。
そしてそれらを並べてだんだん近づけていくことで、
未知の不連続関数を攻略するという
アプローチをとるのであり、この考え方が基本となっているのである。


「AとBが等しい」ということを言いたいとき、
それを「AとBとの間の仮想的な距離が0である」
というイメージで捉えようということである。


「距離」を何らかの形で定義すれば「空間」が定義できる


例えば「商品Aの購買層となっている消費者グループ」と
「商品Bの購買層となっている消費者グループ」などを考えると、
これらはそれぞれ一種の集合で、
不連続な言葉による一種のデジタル量である。


関数解析ではこういう論法をとらず、
Cとして|A-B|<Cとなる量を考えて、C→0とすることで
A=Bを示す、というアプローチを取っているのである。


このような不等号を使う方法をとると、
Cの選び方の自由度が大きいため、
このような未知の不連続な関数を扱う場合でも、
とにかくあるところまでは駒を進めることができ、
それはやってみるとよくわかる。


「lim f(xn)≠f(lim xn)」という困ったことが生じてしまうわけであり、
こうなると事態の重大さはおわかりだろう。
つまり土台の肝心な部分で「=」が成り立たないことがあるとなれば、
その上に構築された等式全体が狂ってくる恐れが出てきて、
話が根幹からおかしくなってしまうのである。
(中略)
そのため数学はどんなことをしても
この障害を埋めねばならなくなって、
現在の解析学は、この障害を取り除くことに多くのページを割いており、
場合によっては本の大半がそれで埋め尽くされていることもある。


しかし上の話を知らない状態でそういう部分を読むと、
記号の難解さ以前の障害として、
そもそも何がしたくてそんなことを言っているのかがわからない。
要するにその部分では lim f(xn)=f(lim xn) が
ちゃんと問題なく成り立つことを確認しようとしているのだが、
常識からすればそれは一致するのが当たり前に見えて、
なぜわざわざそんな労力を払わねばならないのかが
理解できないのである。






engineer_takafumi at 22:52│Comments(0)★理系本の書評 |  ⇒ 数学

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