2018年01月01日

神話の力

本日はジョーゼフ キャンベル氏、ビル モイヤーズ氏の
神話の力
です。
神話の力 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)


神話は物語の中でも根元的な位置にあります。

というのも、民族や人種を超えて、
あらゆる人間が持っているものだからです。

もちろん、文化が違うので、
それぞれの神話は一見異なります。

しかし、その中にも共通する部分が
かなり見えてくるのです。

神話を研究し、その共通部分を分析し、
説明してくれるのが本書になります。

男とは、女とは?
宗教的な儀式が人に与える意味は?
生とは、死とは?
など、人種や民族を超えて、
我々のDNAに何が刻まれているのか理解できます。


難解な話も多いですが、会話形式を取っていて
読みやすくなるように配慮されています。

また、神話の物語の公式はあちこちで使われていますので、
「あれはそういうことだったのか」という
気づきをたくさん得られることでしょう。


個人的には、
犠牲(いけにえ)の意味について書いた部分が
非常に印象に残りました。


物語を作る人には必読の一冊だと思います。
人が本質的に惹かれるストーリーとは何なのか、
そのヒントが得られるでしょう。





生命体の本質は、それが他のものを殺して食べることにある。


狩猟はいけにえのための儀式になり、
狩猟者は肉体を去る動物たちの霊に対する償いと
和解の儀式を行うことによって、その霊をなだめ、
ふたたび犠牲になってくれることを祈ったのである。


人間を矮小化したり、神聖なるものから切り離した元凶は、
科学ではない。


新しい科学的発見のかずかずは、この宇宙全体なかに
「われわれ自身の最も内面的な性格の反映」を
拡大して見せてくれるという意味で、
われわれを「ふたたび古代人に結びつけてくれる」
というのだ。


どんなことでも、他人が重要だと言っているから
興味をむけるなんて、賢明なこととは思えません。
ただ、どういう形であろうと、
その問題のほうから私をとらえて放さない場合には、
まともに受け止めるべきでしょう。


乳歯を抜く、皮膚を傷つけて紋様を描く、
割礼を施すなど、いろいろな儀式が行われてきましたね。
こうして人はもはや子供の体を持たない、
なにか全く別のものになるのです。


アメリカで暴力がむやみに多発するもうひとつの理由は、
アメリカにエトスが欠けていることです。


ジャーナリストやジェネラリストは
一般大衆の目の前で自己教育をする義務がある。


判事が法廷に入ってくると、みんな起立しますが、
それはその人に敬意を表するためではなく、
その人が帯びている責任、その人が果たそうとしている役割
に対して敬意を表しているのです。


神話は歌です。
それは肉体のエネルギーによって生気を吹き込まれた
想像力の歌です。


神とは、人間の生命の営みのなかでも、
また宇宙内でも機能している動因としての力、
ないし価値体系の擬人化です。


夢は自分の精神状態についての
汲めども尽きない情報源です。


あなたがそれを知ったとき、
あなたは創造の原理と一体となっている。
その原理はこの世界のなかで、つまりは、
あなたのなかで働く神の力だ、というのです。


ヘビは生命力のせいで脱皮をします―
ちょうど月がその影を捨てるように。
ヘビが脱皮をするのは生まれ変わるためです。
月が影を捨てるのも生まれ変わるためです。
ヘビと月は同じ意味を持ったシンボルです。
(中略)
ヘビには生命の魅力と脅威との
両方の意味がこもっているのです。


エデンの園の物語には母なる女神を排斥するという
歴史的な意味が込められているのです。


私たちはいつも対立した諸観念のなかでものを考える。
しかし、究極者である神はあらゆる対立観念を超越している。
そうだとしか言えません。


神のことを男性だとか女性だとか
分けて語るのはばかげたことです。
神聖な力は性別より前からあったのですから。


人生はひとつの試練であり、それをくぐり抜けなければ
生命の束縛から解放されないという考えは、
比較的高度な宗教だけに属しています。
原始的な種族の神話のなかにはそういうものが見当たりません。


究極的なものは、それがなんであれ、
存在と非存在というカテゴリーを超えているということです。
<ある>とか<ない>とかいうカテゴリーを。


永遠とは今後の時間ではない。
永遠とは長い時間でさえない。
永遠は、時間とは無関係です。
永遠は時間領域内のあらゆる思考が切り離している
<いまここ>の次元です。


神話は二つの目的に仕えなければなりません。
ひとつは、若者を自己の世界での生活に導き入れること―
それが民族思想(folk idea)の役割です。
いまひとつは、その世界から離脱させること―
民族思想は人間にとって最も基本的な理念を開示してくれ、
人はそれに導かれて自分自身の内面生活のなかに入っていくのです。


ペットの牛の肉は食べようとしないのです。
友達の肉を食べるというのは、一種の共食いになるからです。
ところが、原始社会の人々はしょっちゅう友達の肉を食べていた。
そこでなにか心理的な償いが必要になってくる。
神話がその助けになってくれたのです。


もしもホラアナグマをなだめる儀式がなかったら、
クマは姿を現さず、原始人のハンターたちは
飢え死にするほかなかった。


世界中の狩猟民族のあいだに、
主要な食料動物に対するとても親しい、
感謝に満ちた関係を見いだすことができます。


インディアンは命あるあらゆるものを「あなた」と呼んでいました。
(中略)
「あなた」を見るエゴと、「それ」を見るエゴとは
決して同じではないんですね。
かりに私たちが戦争を始めたとします。
そのときの新聞の問題点は、
相手の人々を「それら」にしてしまうことです。


彼らは子供の状態から切り離された。
肉体にメスが入れられ、割礼と尿道切開とが施され、
おとなの体になった。
そういうショーのあとでは、
少年に舞い戻るチャンスなどありえないのです。


しかし、私たちの生活のなかにはそんな儀礼は一切ありません。
45歳にもなって、ようやく父親の命令に従おうと
努力し始める男だっているんです。


儀式は神話の再現です。
人は儀式に参加することによって、
神話に参加しているのです。


昔の人々は社会にルールに従おうとしない者を
容赦しませんでした。
社会には彼らを養うだけの余裕がなかったのです。
だから、そんな連中を殺したものです。


彼らは忘れているんです。
儀式の役割は日常性から人を引きずり出すことであって、
やさしく包んだうえで元の古巣に
連れ戻すことじゃないということを。


超自然の法則は人々に、
聖職者の指示どおり生きることを要求したからです。
荒れ野では、人々は自分の目的ではなくて、
逃れられない掟として押しつけられた
諸目的を果たすことに力を尽くします。


自分たちの食用となる植物は、犠牲にされた神はたは先祖の、
切り刻まれて埋められた体から生えたものだというモチーフが、
至るところで見られます。


狩猟文化において犠牲が捧げられる場合、
それは自分たちのためになにかをしてくれる、
あるいはなにかを与えてくれるよう頼んだ神に対する贈り物、
またはわいろみたいなものです。
しかし、農耕文化において、ある者が
犠牲として捧げられるときには、犠牲それ自体が神なのです。


いけにえにされることに対して、
古代人は私たちとは全く違う考えを持っていた。
(中略)
生命の勝利の勢いに乗ってみずからを捧げるというのが、
古代社会のいけにえの考え方の本質です。


死の神は踊りの主である。
そして死の神は、同時にセックスの主でもある。


エジプトの神オリシスは、
死者の審判者でもあり主であると同時に、
生命の増殖の主でもある。
基本的なテーマなんです。死ぬものは生まれる、というのはね。
生命を持つためには死を持たねばならないんです。


ふつう英雄の冒険は、なにかを奪われた人物、
あるいは自分の社会の構成員にとって可能な、
または許されている通常の体験には、
なにか大事なものが欠けていると感じている
人物の存在から始まります。
それから、この人物は、失ったものを取り戻すため、
あるいはなんらかの生命をもたらす霊薬を見つけるため、
日常生活を超えた一連の冒険の旅に出かけます。


何度も何度も何度も繰り返し起こることは、
どんなに英雄的な行為であってもニュースにはならない。
母親となる行為は、いわば目新しさを失っているんです。


偉大な宗教がそろって教えていることを
忘れているように思えます。
英雄の旅の試練が人生に深い意味を与えるということ。
なにかを放棄しなければ、代価を支払わなければ、
目的物は得られないということ。


だれかを神と呼ぶか怪物と呼ぶかは、
もっぱら意識の焦点がどこにあるかによって決まるのです。


意識は人間全体のなかでは二次的な器官であって、
それが主人になってはいけないんです。
意識は肉体を備えた人間性に従属し、それに仕えなければ。


神話は、もしかすると自分が完全な人間になれるかもしれない、
という可能性を人に気づかせるんです。


あらゆる若い人たちが生きていくうえで大事な問題は、
可能性を示唆してくれるようなモデルを持つことです。


私たちは死を理解できません。
死を静かに受容することを学ぶだけです。


人は、生の反対物としてではなく、
生のひとつの相として死を受け入れたときにのみ、
無条件な生の肯定を経験することができる。


自分の幸福について知ろうと思ったら、心を、
自分が最も幸福を感じた時期に向けることです。


神話は、なにがあなたを幸福にするかは語ってくれません。
しかし、あなたが自分の幸福を追求したときに
どんなことが起こるか、どんな障害にぶつかるか、は語ります。


もちろん思いやりは苦しみを許容しますとも。
そう、苦しみこそ人生だという認識に立って。


神話は絵空事ではありません。神話は詩です。隠喩ですよ。
神話は究極の真理の一歩手前にあるとよく言われますが、
うまい表現だと思います。
究極のものは言葉にはできない、だから一歩手前なんです。
究極は言葉を超えている。イメージを超えている。


叙事詩のなかではしばしば、英雄が生まれるとき、
その父親はしんでいるか、あるいはどこかほかの場所にいるので、
その英雄は父親探しにでかけなければならない。


処女降誕が語ろうとしているのはそのことです。
英雄や半神は、支配力、セックス、自己保存などではなく、
慈悲や慈愛という動機から存在するからこそ、
処女降誕という姿で生まれてくるのです。


感傷は暴力のエコーにすぎません。
生命のほんとうの表現ではないのです。


あまりにも子供を可愛がったあげく、みんな食べてしまった。
神は「これはこのままにはできない」と考えました。
そして親の愛を99.9パーセントくらい減らしたので、
両親は子供たちを食べなくなった。


なにかをもっと飲み込もうとして大きく開いた口の奥に、
心臓が見えているという絵を見たことがあります。
人を食べてしまうような愛とはそんなものですね。
母親たちが減らすことを学ぶべき愛とはそういうものです。


イエスには戦闘的なところはありませんでした。
福音書のどこを読んでもそんなものは見つかりません。


"religion"(宗教)という語はラテン語のreligio(結びつきを取り戻す)
という原義を持っています。
私たち二人の生命のなかには実はひとつの生命があると言う場合、
分離されていた私の生命はそのひとつの生命にリンクされる。
結びつきが回復されるわけです。


指輪にもうひとつの面があるからです。それは束縛です。
国王であるあなたは原理によって縛られる。
自分の好き勝手な生き方が許されるわけではない。
あなたはマークされている。


私は比較神話学を教え始めたとき、学生たちの
宗教的信仰を壊してしまうのではないかと心配していました。
が、結果は全然反対でした。
(中略)
自分は大した意味を感じていなかった宗教的な伝統が、
それを他の伝統と比較してみたとき
つまり同じようなイメージがより内面的な
あるいは精神的な解釈を与えられている伝統と比べたときに、
突然新しい光のもとではっきり見えてきたのです。


私の学生のなかにはキリスト教徒も、ユダヤ教徒も、
仏教徒もいましたし、ゾロアスター教徒も二人いましたが、
全員がその経験をしました。
ある宗教体系のシンボル群を解釈し、
それらを事実ではなく隠喩と呼ぶことにはなんの危険もありません。


宗教の教義があなたに他人との思いやりに満ちた関係を築くよう、
行動の様式を教えてくれるからです。






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