2018年01月10日

証券市場誕生!

本日は日本取引所グループ の
証券市場誕生!
です。
日本経済の心臓 証券市場誕生!

本書は出版関係者の方よりご献本頂きました。
オトバンクの上田様、ありがとうございました。


本書は東京証券取引所と大阪証券取引所を
運営する持株会社である日本取引所グループ(JPX)が
日本の証券市場の歴史を書いたものです。

日本の取引所の歴史は、17世紀に大坂の堂島に作られた
堂島米会所にさかのぼります。

そして、これはなんと世界初の公設の
証券先物取引所となったのです。

そして、明治の動乱期に渋沢栄一や今村清之介、田中糸平らに
よって日本に近代的な証券取引所が設立されるのです。

それから、戦後から現在までの、
証券市場の変化の歴史も記されています。

読むだけで知的好奇心が満たされて面白い上に、
写真や資料なども多く、資料としての価値もある一冊です。


個人的には、戦前・戦中の証券取引の様子が印象的でした。
東京大空襲の時でさえも1週間ほどしか取引停止しておらず、
終戦の5日前まで取引が行われていたのです。

証券取引をする人は一読して損のない一冊でしょう。
証券の歴史を知り、深く理解することは
取引にもプラスの影響を及ぼすのではないでしょうか。



世界最初の公設の証券先物取引所の誕生は、
江戸幕府第8代将軍徳川吉宗が、
享保15年(1730)年に大坂の堂島米会所を設立した時です。


「正米商」の取引は、まさしくスポット取引に相当し、
「延売買」は先渡契約に相当すると考えられます。


1531年にアントワープに、1568年にロンドンに、
公設の商品取引所が設立されていますが、
この堂島米会所は日本で最初の公設の取引所であるばかりではなく、
世界で最初の公設の先物取引所ということになります。


堂島米会所は日本の重要な金融機能を担っていたのですが、
天保期(1830〜1844年)前後から、
堂島米会所の機能がうまく回らなくなった原因は、
相次ぐ飢饉の発生と、米切手の発行元である各藩財政の悪化によって、
市場でお金を融通し得る限界を超えてしまったことにあります。


米切手は発行元の藩の蔵の中にある米の量と
完全に合致した量しか発行されなかったわけではありませんし、
蔵の中にある米の量より多い分量の
米切手が流通していたことは周知のことでした。


江戸幕府は米価政策として、空米切手禁止令
(米での交換が確約できない米切手の発行禁止)を何度か出して、
米切手が交換できない事態をできるだけ減らそうとしていました。


現在、創業の支援する専門家を「インキュベーター」と言いますが、
明治時代に栄一が行っていたことは、これに近いように思われます。
栄一が設立支援した会社には、王子製紙、七十七銀行、日本郵船、
帝国ホテル、アサヒビールなどがあります。


東京株式取引所の創設時点では上場できる株式会社が少なく、
創設初年度に上場していた株式は第一国立銀行、兜町米商会所、
蠣穀町米商会所および東京株式取引所の4銘柄のみ。
これでは株式が売買の中心になるはずもなく、
金禄公債・秩禄公債の公債売買所として機能していました。


取引手法は、兜町にあった米商会所で採用されていた、
いわゆる「つかみ合い」で、希望条件が合致する
売り手と書い手同士が個別に約定する方法です。
この方法は、約定値段の一致をみるまでに時間を要することと、
取引参加者増加への対応が困難であることから、
明治26(1893)年頃、大坂株式取引所で、
現在の板寄せと同じ「付合せ」という手法に変更され、
また、約定成立をしらしめるため、
売買開始時の合図にも使われていた拍子木(柝)を
打ち鳴らす方法を採用しました。


証券界の七十七銀行への感謝の想いは戦後になっても変わることはなく、
資金決済銀行として七十七銀行への場勘銀行指定は、今も継続されています。


昭和14(1939)年にイギリス・フランス・オーストラリアが
ドイツに宣戦布告して第二次世界大戦が開始されると、
第一次世界大戦後の株高が連想されたのか、
証券市場は全面高の様相となります。
ですが、しばらくすると、また長い低迷を経験し、
ついに昭和16(1941)年7月には政府が株価の下限を決定できる
「株式価格統制令」が出されました。


戦時中にもかかわらず、昭和16(1941)年12月と翌17(1942)年1月には
法令や税制強化で株価の高騰を抑制しなければならないほどで、
昭和17(1942)年11月には平均株価が日米開戦前の2倍に達しています。


第二次世界大戦後半期、戦局の悪化に伴い株価は下落しますが、
戦費調達のために発行された
巨額の戦時公債の販売はむしろ盛んになります。


昭和20(1945)年3月10日の東京大空襲では、
取引所周辺も爆撃され焼け野原となりました。
取引や3月16日まで停止になり、
東京と通信が途絶した全国各地の取引所も
取引を停止しています。


同年8月6日に広島に原爆が投下され、
大蔵省の支持で8月10日に全国の取引所は売買を停止します。
この後、日本証券取引所が再開することはありませんでした。


終戦直前の株式市場では、
戦時金融金庫による株価維持政策によって、
買い方の70%が日本証券取引所となっており、
とても投資家中心の証券市場とは言えない状況でした。


太平洋戦争の終結後、戦争中に行われていた金融統制が解除されると、
多くの国民は日々の食糧確保のための金を銀行から引き出しました。
その結果、市中の貨幣流通量が増え、インフレ傾向が顕著となりました。
そこで、日本政府は、インフレに対応した新しい紙幣(新円)
を発行すると共に、交換方法を銀行からの預金引き出し時とし、
預金引き出し額に上限を設けることで、
新円を受け取れる量に制限をかけました。


ところが、これには抜け道があったのです。
株式を買う時の代金は預金から旧円で支払うことができ、
株式を売った際の売却代金は無制限に
新円で受け取れるという特例があったため、
旧円を多く持っていた富裕層は株式を買って、
それを短期間で売ることで新円を手にすることができたのです。


昭和20(1945)年末と昭和24(1949)年末の
株式分布状況を比較すると、
個人投資家の全体に占める割合が53.07%から
69.14%に増加しました。
この個人投資家比率は、戦後で一度も破られていない最高値です。


現在の東京証券取引所の定款は、
株式会社化などの際に大幅に変更していますが、
当時の定款は、「サンフランシスコ」を「東京」に直した程度で、
サンフランシスコ証券取引所の定款を
ほぼそのまま使っていたそうです。


東京証券取引所は、まだ計算機もない1950年代に、
日本の金融業界においては
初めてのコンピュータ化に挑戦することになるのです。


取引所の全面システム化は待ったなしの状況になり、
平成2(1990)年に「立会場事務合理化システム」が導入され、
平成11(1999)年12月には、株券売買立会場は
全面自動システム化され、閉場となります。


株券に使われる紙は、福井県今立郡今立町(現在の越前市)で
生産されていた越前和紙が使われました。






engineer_takafumi at 01:13│Comments(0) ★一般書の書評 | ⇒ ビジネスその他

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