2018年01月14日

レトリック感覚

本日は佐藤 信夫 氏の
レトリック感覚
です。
レトリック感覚 (講談社学術文庫)

本書は比喩を勉強しようと思って読んでみました。

比喩というと、直喩と暗喩が頭に思い浮かぶでしょう。
「〜ようだ」をつける直喩と比喩だと明示しない暗喩です。

しかし、直喩と暗喩に表現として、どのような違いがあるか
知っている人はほとんどいないと思います。

また、比喩表現は直喩と暗喩だけではありません。
例えば、ヒゲの生えた人を「ヒゲ」と呼ぶような表現、換喩。
そして、「食料をくれ」という意味で「米をくれ」と表現する、提喩。
実は、世の中の表現は驚くほど比喩表現に溢れているのです。


本書は比喩表現の文法書、のようなものかもしれません。
定義にページを使ったり、論理的な説明が展開されています。

でも、文章を書くことは、もっと感覚的でないか、
と感じる人もいるかもしれません。

ただし、いい文章を書くのに、文法の知識は必須だと思います。
形容詞を省いて、固有名詞を増やしなさい、
と言われても文法を学んでいないと理解できません。

それと同様に、本書で比喩の表現を論理的に学ぶことにより、
世の中の様々なレトリック(修辞法)について理解が深まり、
自分が使うときに、大いに役立つものだと思っています。


個人的には、提喩の説明が心に残りました。
「雪」を「白いもの」と表現することに
これほどの効果があるのですね。


小説を書く人は必読の一冊だと思います。
理論を知ることにより、
表現のレベルを大きく向上させられるでしょう。




技術学としてヨーロッパに成立したレトリックは、
その長い歴史を通じて、悪口の対象とされることが
少なくなかった。
その理由のひとつは、元来レトリックが
<説得>の技術でもあるというところにあった。


じっさい「レトリック」ということばを耳にするとき、
私たちの念頭にはしばしば
<あげ足取り、言いつくろい、巧妙な言いのがれ>というような、
あまりかんばしくない連想がただよう。


開発期のレトリック研究者が発見し、
おそらくは小躍りしたに相違ないものは、
規律への違犯のしかたにも規則性があるという
重要な現象であった


体験が共有化されないのは共有の言語表現がないからなのか、
それとも、言語表現がないのは体験が共通でないせいか、
どちらがどちらの原因か、これはけっこう難問である。


ゆうべ、あなたひとり<だけ>が、たった一回<しか>
体験しなかったことがらには、名まえがついていない。


「狐のようにその地位につき、獅子のようにその職務をおこない、犬のように死んだ」
という文章を読んで私たちは、何となく感じを理解してしまう。
が、よく考えてみると、私たちはたいてい
キツネもライオンも、動物園のおりのなかでしか見ていない。
(中略)
本物ではない、うわさの動物なのであった。


町はストーリーを成立させるための舞台設定であったはずなのに、
逆に、ストーリーからその町を知る……という、
さかさまの解読法で、しかも、古典落語に魅せられるにいたる。
それはいっこうに不都合なことではない。


空欄に、何を代入しても、
それなりに新しい風景が描き出されてしまう。
言語のそういう不思議な可能性に気づいたとき、
人々はことばで遊ぶことをおぼえたのであった。


直喩を類似性にもとづく比喩だという。
しかし落ちついて考えてみれば、
類似性とは<どれほど、似ていないか―相違性に近づいているか>
ということでもある。
<大きさ>とは<小ささ>のことでもあり、
<高さ>とは<低さ>のことでもあるという事実を、
私たちはうっかり忘れがちだ。


<現にテレビの音がうるさい喫茶店でしゃべっている人生論>が
<いかにもテレビの音がうるさい喫茶店でしゃべる人生論のように>
聞こえてしまうという浮薄さに、「彼」は驚いた。
彼は、同一性のなかにおぼれそうになっている本来の相違性を、
直喩によって救い出したのであった。


レトリックのあやといものは、
つねに『いつわり』のものである


まことの比較とは、常識の目で見て、
もともと類似性があってもおかしくない同類のもののあいだに
期待どおり類似性が見出される、そういう認識のことであろう。
それに反して、いつわりの比較とは、
もともと比較されるような類似性が期待されていないところに
予想外の類似性を見い出す認識である。


常識によってはじめから認められている類似性
<にもとづく>比較表現はあくまで平常文であり、
以外な類似性<を提案する>比較表現が直喩ということになる。
すなわち、レトリックの直喩とは<発見的認識>である。


隠喩の読者は、いわば解法を見つけるゲームによって遊び、
みずから発見した解答にささやかな驚きを感じる。


古代から、現代でもなお、隠喩はつねに
レトリックの中心的な関心のまとである。
19世紀後半に古典レトリックがすっかり見捨てられたのちも、
隠喩だけはいつも哲学者、詩人たちの興味をひきつづけている。


隠喩があまりにも重要な扱いを受けたせいで、
その周辺にあるいくつかのことばのあやのかげが
薄くなってしまった。
直喩などは、その、あおりをくらったあやの典型的な例である。


「ちいさくつぼんだ唇はまことに美しい蛭のやうに伸び縮みが……」と、
これは直喩でしか書きようがない。
一般に直喩を無理やり隠喩に変形すれば、
ひとりよがりになるほかはない。


理論家たちは、同じ文を直喩と隠喩に書き換えるという、
正しいけれども見当違いな説明をつづけて来たのであった。
じつは、隠喩が必要でかつ十分な場合は隠喩で書き、
直喩が必要でかつ十分な場合は直喩で書くという、
それこそレトリックの本質的意義を、
当のレトリック研究者たちは、理論としては承知していながら、
実例において忘れはてていた。


直喩が相手に対して説明的に新しい認識の共有化を求めるのとは逆に、
隠喩は相手に対してあらかじめ共通した直観を期待する。
それゆえ、典型的な形としては、
直喩は知性的なあやであり、隠喩は感性的なあやである
と言うことができる。


たとえば、新しい物体や概念が出現するたびに私たちのうちの誰かが、
人工「衛星」、「衛星」国、「衛星」都市などという
隠喩を思いついた。
文化「遺産」とか、人間「国宝」とか、「黒い霧」、
「灰色の」政府高官、「ピンク」映画、などという
隠喩を考えついた。


私たちは、夕日が「沈む」と言い、日が「落ちる」と言い、
ほとんどほかの言いかたを知らない。
とんびも「飛び」、「舞い」、輪を「描く」。
原理的に、何が平常表現で何が隠喩か、わかったものではない。


隠喩は、直喩のように類似性を創作することはできない。
が、かくれている類似性、埋もれている類似性を
発掘することはできる。
それに新しい照明をあてることができる。
その発掘の働きこそ、隠喩の生命力にほかならない。


人間は深い関心をいだいている対象に対して、
とりわけ本名よりあだ名を使いたがる。
これは不思議な現象ではないか。


あだ名の形式のうちで一番広く見られるものが
白雪姫型(隠喩)と赤頭巾型(換喩)であることは、
統計などとってみるまでもないだろう。


この換喩によって、その男が少なくとも視覚的には
極めて印象的に造形された。
換喩によって、彼は、その他おおぜいどころではない、
固有名詞を与えられる以上の(視覚的)重要人物になった。


すべての換喩表現は、くどい完全な表現法を
はしょった言いかたである、と思い当たる。


レトリックは、言語の常識的ルールにわずかにさからってもいいから、
あえて意識の真相を忠実に再現しようという工夫でもあった。


デュマルセ自身、提喩は換喩の一種だと明言している


Σ型の(そしてそれと表裏一体のπ型の)全体と部分は、
現実的な隣接性ではなく、意味の大小関係、
すなわち類と種の関係であるから、
換喩とはまったく別のものとして扱わなければならない。
私はそれを本来の提喩とみなすことにしたい。


「人はパンのみによって生きるのではない」と言うとき、
あきらかにパンという種は異常に膨張して
食物全体という類をあらわしているはずだ。
これが比喩でないと言えるだろうか。


外延的には「白いもの」は類であるから、種としての雪を含み、
いわば雪の意味のまわりを雪以外の
ありとあらゆる白い存在物でかこみ、つつんでいる。
そして内包的には、この文中の「白いもの」という表現は、
雪のもつさまざまな特性のなかで
特に白さにだけ集中的に照明をあてていることになる。


私たちの言語認識の能力は、むしろこのような
意味の膨張・収縮に自在に適応する弾力性をそなえているからこそ、
一瞬のうちに、無自覚のうちに比喩を読み取ってしまう。


本質的に、提喩と換喩は同系のことばのあやである。
そしていずれも、語句の意味的な類似性にもとづく
比喩であるという点が共通で、
現実的な共存性にもとづく比喩である換喩とは
対立するものだと言わなければならない。


やいばとか刃身というような物理的にも論理的みの
いちばん具体的なことばをもちいるかわりに、
はるかに抽象的な語句を使うことによって、
結果は逆にきわめて生彩に富んだ具体性を獲得する


新しい事態に対処するための便利な新造語としての提喩も多い。
都会を「緑化」しようというのは、決して町じゅうに
グリーンのペンキを塗りたくろうということではない。


私たちの国語の「飲む・打つ・買う」という
提喩の三拍子がそのいい例だ


提喩は、認識する人の目と認識されるものとの、
たえず変動する距離に応ずるトリミングであり、
絞りであり、フィルムの感度……その他でもある。


言語は本来、うそをつくためのものではない。
その言語にことさらにうそをつかせるのは、
第一の、言語への反逆である。
うそはばれぬようにつくべきものだ。
そのうそを、ことさらにうそとわかるようにつくのは、
第二の、うそへの反逆である。
誇張法は、二重の謀反によって、
表現による表現自身への批判となった。


誇張法は本質的に甘えと無関係ではないのだ。
うそとわかるようにつくうそ。
それは、万一それがうそだとわかってくれない
勘の悪い聞き手に出くわしてしまうと、
本当のうそになってしまう。


ここでは、ものごとを念入りに表現するために
同格のさまざまのことばを次々とつみあげていく表現法を、
まとめて<列叙法>と呼ぶことにする。


瞬間と光年というふたつの単語の外形の大きさは、
いっこうにその内容の大きさの差を反映していないし、
一瞬間を何ページにもわたって語る長い文章もあれば、
宇宙の十億光年の距離を一行の文句で記述することもできる。


混乱あるいは繁盛をことばで造形するには、
列挙法はうってつけの形式である。


私たちが、生まれてから死ぬまで
その黒さのなかにいるのだとしたら、
それを黒さと呼ぶことも、
知らずに生涯をおえてしまうかもしれない。
緩叙法は、存在しない白さを、強引に思い浮かべる方法である。
その想像力の働きによって、はじめて私たちは、
黒いものが<白くないもの>であることを知る。
緩叙的姿勢が、ときには私たちにとって認識上の救いになる。


「うれしい」と言うとき、人はたんにうれしいのであろう。
それに対して、「かなしくはない」と言う表現は、
うれしさのかたわらに、存在しないかなしみの映像を成立させる。


対義語は、つねに私たちが発見につとめるべきものなのだ。
そして、つねに新鮮に、生き生きとした状態をたもつよう、
手入れをおこたってはならぬものであろう。


人魚は、否定されることによって、
<そこにいない人魚>として姿をあらわした。
はじめから人魚など気にもならない人は、
決して「人魚ではないのです」などと言いはしない。
何も言わなければいい、どうせ人魚も何も、
はじめからいないのである。
にもかかわらず、ある人は、「人魚」と「浪ばかり」を
一対の対義語として発見してしまった。






engineer_takafumi at 15:19│Comments(0) ★一般書の書評 | ⇒ 書き方・話し方・言語

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