2018年02月03日

よみがえれ、バサラの精神

本日は会田 雄次 氏の
よみがえれ、バサラの精神
です。
よみがえれ、バサラの精神―今、何が、日本人には必要なのか? (PHP文庫)

たとえば、インドの有名な観光地であり、
当時のインド文化の高さを表すタージ・マハル。
これがなぜ創られたのか知っているでしょうか?

これはムガール帝国第5代皇帝のシャー・ジャハーンが
自分の后が亡くなったのを悲しんで建てた霊廟、
つまりお墓のようなものです。

建立には20年以上もの月日を要し、
かかった金銭も莫大で、
ムガール帝国が傾くほどだったといいます。

つまり、この皇帝は自分の悲しみのために、
国民から搾り取った税金を湯水のように使い、
国を傾かせたということになります。

現在なら考えられないような悪政ですが、
長い目で見た時、本当に悪政と呼べるのでしょうか。

何せ、有名な観光地として外貨を稼ぎ続け、
インドの象徴として、世界中の人に知られているのです。
それは将来もずっと続くでしょう。


現在、東京オリンピックの開催にあたり、
金銭的負担が問題となっていますが、
このような視点で見ると、景色が違ってきます。

また、本書では同様に「社会の階層化」も
ある意味で必要なものだと説きます。


初版が1987年とかなり昔の本ではあるのですが、
そこに書かれた思想には新しさを感じるものさえ多く、
現在の日本にこそ、必要とされているのではないか、
とさえ感じました。


政治家や官僚を志す人に、一読をお勧めする一冊です。
今の社会で常識となっていることをひっくり返し、
本当に国のために必要なことを見直せるでしょう。



当時十数万人と推定されるフェララ候国の民百姓は数年間、
そのための増税などいろいろな賦課で苦しんだだろう。
だが、この大司教がまったく自分の好みから、
そしてそれだけに凝りに凝った
何とも馬鹿々々しい噴水庭園を造ったおかげで、
その後数百年にわたって、この土地は大いに潤ってきた。
現在もその恩恵をフルに受けているともいえるのである。
今後もずっと受け続けるだろう。


百年、二百年、あるいは五百年のタイム・スパンで見れば、
ともかく富を集中投下して、
後世を潤すに足る観光資源を造り出した彼の所業を、
単純に悪政を決めつけるわけにはいかないのだ。
もちろん彼にそんな意図は
まったくなかったにしてもである。


いかなる土地、いかなる国の宮殿にせよ、廟にせよ、
それを造ったときは為政者は
民生とか社会のためなどとは全然思っていない。
ただひたすら自分が楽しむため、后が楽しむため、
あるいは後世を祈るために「民の膏血」を絞って
造ったものばかりである。
(中略)
だがそれが後世に残り、
より大きなタイム・スパンで見るとき、
その地の人々にとって大きなプラスに
なっていることが多いのである。


人々が文化遺産として高く評価し、
大勢が見物に訪れるのは、
信仰上の理由や、建築者・製作者の主観的な意図に
共感してのことではない。


真の宗教者なら、大寺の建立など要求しまい。
真の信者ならそんなことで救いを得ようと思うまい。
要するに名所といわれる建築物は、
当時の人々の大部分にとって、
よくもこんな下らぬことに金を使いやがってと、
反感・憎悪・怨恨の対象になるような、
まったく無意味な個人の趣味・歓楽を満たさんがために
建てられたものがほとんどなのである。


実用一点張りで、馬鹿々々しいところもなければ
無駄なところもないものが、
人を魅きつける力をもつはずがない。


戦前の東京の国会議事堂や上野の博物館に
対応できるものさえない。
戦後になって、そういうものは美醜・善悪ともに、
まるで底を払ったように創られなくなったのである。


豊かな社会は本来的に豊かな心を生む。
金持ちは無駄の効用を知るはず、
少しいいかえると、無駄金・無駄な時間が
流れる世界に住んでいる人間は、
自然と大きなスケールの人間に育っていくものなのである。


日本では、国民の血税を一銭も無駄遣いするな、
などとしきりにいわれる。
しかし実際は、極端に細分させて使うから、
一見慎重に見えるが、実はおそろしいほどの無駄金が、
役人の給与から各種の補助金、奨励金、補償金
という経路で流出している。


文明があっても文化がなく、
国民が豊かなだけの一億総下司下郎化した今日、
戦後社会に文化をもたらすことが切に要求されている。
文化を作りあげるには、繰り返すがごとく、
途方もない金と頭脳と労働の集中的浪費が不可欠なのである。


バサラとは金剛童子のもつ武器"バージラ"よりきたもの。
実力と合理性を欠く旧来の権威の一切を否定、
伝統による拘束を排し、思いのままに行動し、
財のあるものは財、能力者はその能力のすべてを
散じ尽して生きようとする精神である。


床の間に懸った「文晃の贋物」、
これが田舎というものなのである。


日本の社会がこれから、本当に成長していくためには、
責任ある指導層が大衆から分かれてくることが必要なのだ。


もう少し社会が階層化して、
それぞれが違った育ち方、違った教育を受けて、
分に応じた使命感を燃やすという状況が切に望まれる。


思想は外国からやってくるもの、知識は教えられるもの、
知恵は人から授けられるものと考えるのが私たちのくせだが、
それでは、いつまでたっても知性は磨かれない。
知識を得るのは自ら考えるための材料を仕入れることであって、
多いに越したことはないが、思考そのものではない。


旧日本軍で部下を戦場に残し、自分はいち早く逃亡、
残された将兵は全滅といった場合でさえ、
その指揮官は何ら責任を問われていない。
いまさらそれを問えというのではない。
だがこういう敗戦処理が、
戦後日本の無責任体制をつくる一因となり、
その無責任さが、外交折衝でも日本人は口先だけで
何も実行しないという憤りを招く大きな原因にもなっている。


ヨーロッパでは、成功者は一代目で土地を買い、
二代目が家を建て、三代目が家具を買って金持になる、
といわれる。
これは同時に、三代目になってやっと
富裕層にふさわしい精神的物質的条件が整う
という意味でもある。


こういう現在の日本人がプライドをもてるのは、
広い意味でだが、「技術」と「技術者」以外に
ないのではなかろうか。


日本人が使って文句をいわないものだということが、
商品の最大のコマーシャルとなりはじめている。






engineer_takafumi at 23:35│Comments(0) ★一般書の書評 | ⇒ その他の本

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