2018年02月14日

東大理系教授が考える 道徳のメカニズム

本日は鄭 雄一 氏の
東大理系教授が考える 道徳のメカニズム
です。
東大理系教授が考える 道徳のメカニズム (ベスト新書)

義務教育で「道徳」が教科になるそうです。
今まで課外活動の一つのような扱いだった道徳が
きちんとカリキュラム化されるということです。

この背景には「いじめ問題」など学校が抱える
様々な問題があるようです。

でも、あらためて「道徳」について考えてみると、
理論化することが難しいのですね。

例えば、人を殺してはいけない、
これは当たり前の話ですが、
いざ「戦争」に直面してしまえば、
大きく道徳が変わってしまうことは明らかでしょう。

また、平常時であっても「死刑」は
どのように扱うべきでしょうか?

このように「道徳」は感覚的なもので、
論理化できていないものであることがわかります。


本書では東大の理系教授が
ロジカルに道徳の構造を解析します。

結果として、「殺してはならない」は
「仲間を殺してはならない」ということになり、
この「仲間」がポイントになることがわかります。

世の中の道徳の構造、矛盾や問題点も明らかになり、
モヤモヤをスッキリさせてもらえる一冊でした。

個人的には、
裁判の量刑の際に「反省」を重視するのは、
自分たちを仲間と思っているかどうかを判断するためだ、
という部分が特に印象的でした。


「道徳」にうさんくささを感じている人にお勧めです。
道徳の構造が明確になり、頭がスッキリするでしょう。





これまでの道徳の主な考え方を眺めてみると、
同じような視点から大きく二つに分類できます。
一つ目は、「人間には理想の道徳がある」と考える人たちです。
二つ目は、「道徳は個人個人が決めるもの」と考える人たちです。


韓非子の考えでは、個人は自分勝手(利己的)な存在で、
それぞれの人が、自分の利益を第一に追い求めています。
社会というのは、このような利己的な人々がだまし合い、
操作し合う戦場であって、
その戦いにはどんな手段を使ってでも勝ち抜くべきだというのです。


古代ギリシャのプロタゴラスやゴルギアスを始めとする
ソフィストたちの考え方や、
古代インドのカウティリヤの考え方も、
韓非子やマキアヴェッリの考え方にとてもよく似ています。
善悪の区別は人々が共有することのできる確固たるものではなく、
便宜上のものであり、自分の都合に合わせて操作してもよいのです。


この世界は、自分の感じ方次第で、
内容が180度逆転してしまう可能性がある、という考え方です。
個人とその心だけが確かであって、
社会や道徳というものは幻想にすぎないというのです。


もし、「理想の道徳」について異なる考え方を持つ社会が、
争ったらどうなるでしょうか?
自分こそが理想の道徳の枠組みを持っている、
と確信している社会どうしの争いですので、
歯止めのきかない恐ろしい戦いになってしまう
危険性があります。


「人を殺してはいけない」という決まりの中の「人」は、
人間一般を指しているのではなく、実際は
「仲間の人間」だけを指しているということがわかりました。


危機になればなるほど、資源が限られれば限られるほど、
仲間の範囲は狭まって、自分にとって、
よりコアな重要度の高い集団への縮んで行くのですね。


死刑かどうかを裁判官や裁判員が判断する際に、
反省しているかいないか、は重要なポイントですが、
これは、罪悪感があるかどうかを間接的に見ることで、
私たちのことを仲間と思っているかどうかを
調べているのだと思います。


殺した人数が多いとか、残虐な殺し方をしたとか、
計画性があったとか、再犯であるとか、
を死刑の判決の際に考慮するのも、
仲間であるかどうかを間接的に測定していると考えられます。


どこの国でも、内乱罪がとても重く罰せられるのは、
それが仲間ではないことそのものを
示している罪だからだと思います。


親はいずれも熱心はキリスト教徒でした。
親たちは、実際には会ったことも話したこともない、
2000年前に生きていた教祖の意見を重視し、
幼いころから愛し育ててきた子どもを、
教祖の教えに背いた者として捨てたのです。


戦争で国家が存亡の危機になると、
それまで国家という枠組みに
何の関心も持たなかった人々まで急に愛国的になります。


「仲間らしくしなさい」という掟です。


これまで出会ったことがないし、
これから出会うこともない赤の他人と、仲間になって、
社会を作るのは、人間だけだ


人間に特有の社会では、
その基礎は家族や親しい友達にあるものの、
大部分は、これまで出会ったこともなく、
おそらくこれから出会うこともない
赤の他人どうしで構成されています。


仲間の範囲に漏れた人間に対しては、
「仲間に危害を加えない」
という決まりが適用されないだけでなく、
ときとして、恐怖や憎しみが積極的に向けられることです。


疎外感の王様のようなキルケゴールが、
人間がいかに孤独で、社会から隔絶されているかを訴えるとき、
社会性の塊であることばを使って主張をしていることに
反省がいかないのは、ちょっと不思議な感じがします。


私たち人間は、社会を必要とし、
常に社会の中での居場所を見つけようとしています。


紛争が起きた際に、コミュニケーションを
断ち切ってしまうのは危険です。
コミュニケーションが閉ざされれば、
慣れと親しみをおぼえる機会がなくなり、
仲間意識が急速に衰え、異質なものに対する
敵意が増大する機会が増えるからです。






engineer_takafumi at 00:06│Comments(0) ★一般書の書評 | ⇒ その他の本

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