2018年02月24日

哲学用語図鑑

本日は田中正人 氏の
哲学用語図鑑
です。
哲学用語図鑑

本書は哲学の用語を解説したものですが、
イラストが多用されていて、
本当にわかりやすくできています。

もしかしたら厳密性に
やや難があるのかもしれませんが、
普通の人が教養として哲学を学ぶ分には
これで十分なのではないでしょうか。

例えば形而上学、イデア、イデオロギー、ニヒリズムなど
普通の本でも哲学的な用語が用いられることがあります。

そんな時に、この本をもっておけば、
さっと意味を調べることができます。

ネットで調べても、難しい解説ばかりで、
どんどん深みにはまることが多いですから、
この本はイラストで理解できて便利に使えるでしょう。

個人的には
シミュレーションの語源を知れたことが
大きな収穫でした。


ある程度、社会科学の本を読む人であれば、
とりあえず手元において損のない一冊です。
一回、軽く通読して、その後辞書のように
参照すると、効果を発揮してくれることでしょう。



ソクラテスとの問答によって、
政治家たちは自分が正義や勇気などの意味を
知っているつもりで実は何も知らなかった
ことに気づかされます。
そして「正しい地しいを学ぼう」
という気持ちになったのです。


善く生きるためにはドクサ(思い込み)を退け、
理性によってエピステーメー(正しい知識)を
得なくてはならないとプラトンは考えました。


感覚だけでものを見ている人に、
理性を使ってイデアを見るように促すことができる存在。
プラトンにとってそれは哲学者にほかなりませんでした。
プラトンは統治者には哲学者がなるべきだと考えました。


プラトンは、
「哲学者が国家の支配者になるか、支配者が哲学者とならない限り、理想的な国家は決して実現しない」
とまで言いました。


アリストテレスは、形而上学(メタフィジカ)は
自然学より先立つ学問であると位置づけました。
たとえば、「シカのツノはどんな働きをしているか?」や
「ツノは何からできているか?」
を調べるのが自然学だとしたら、
形而上学は「ツノとは何か」
「ツノを含め世界はなぜ存在するのか?」
「そもそも存在するとはどういうことか?」
などを考える学問です。


人間の五感で実際に見たり聞いたりできる物事を
超えた物事を考察する形而上学は、
しばしば「哲学」と同義語として扱われています。


一つ一つの個物について探求していくことは重要ですが、
人間が後から考えた言葉である「動物」や「人間」という、
そもそも自然界に存在しないものに
思考をめぐらす必要はないと彼はいいます。
無駄な言葉を剃刀で剃り落とすようなこの考え方は
オッカムの剃刀と呼ばれています。


デカルトは「この世は夢かもしれない」と
意図的に疑ってみることにしました(方法的懐疑)。
そうすると、目の前に見える風景も、
本に書いてあることも、数学も、
自分の肉体の存在さえも疑わしくなりました。
けれどもたった1つだけ疑うことが
できないものが残りました。
それは「夢かもしれない」と疑っている
自分の意識の存在です。
さらに「夢かもしれないと疑っている自分」を疑っても、
最後まで自分の意識は残るのです。


神を登場させた時点で
デカルトの説は胡散臭いと思うかもしれない。
けれどもこの世の中が夢ではなく実在していること
(主観と客観の一致)を証明するのは大変難しく、
原理的に不可能だといわれている。
後にこれを神抜きで証明しようとした哲学者は
大勢いるが、うまくいっていない


意識は行動より後にあらわれることは
最新の脳科学でも定説になっている。
自分の行動があたかも自分の意思によるもののように
脳に思い込まされているのだそうだ。


ホッブズは王権神授説に頼ることなく、
国家の仕組みを説明しましたが、
かえって絶対王政を論理的に擁護するものと
なってしまいました。


啓蒙主義は、合理的な考え方を絶対視した点で、
反省すべき問題を多くかかえています。
けれどもイギリスの名誉革命やフランス革命を引き起こし、
市民を絶対王政から解放したことは事実なのです。


私たちには対象がリンゴに見えても、
宇宙人にはどう見えているか、
どう解釈しているかはわからない。
また、時間や空間の概念は、
私たちの感性の形式に備わっているだけなので、
物自体とは関係がない。


道徳法則は目的を達成するための手段ではなく、
目的そのものでなくてはならないとカントは考えました。


はじめの主張をテーゼ(正)または即自、
それを否定する立場のことを
アンチテーゼ(反)または対自といいます。
そして2つを統一して、より高い次元の考えを生み出すことを
アウフヘーベン(止場)といい、
生みだされたものをジンテーゼ(合)または
即自かつ対自といいます。


今のこの現実を一般的な考えとは無関係に
主体的に生きることを実存と呼びます。
そして既存の哲学のように、
客観的に世界を把握するのではなく、
「この私」にとっての真理を探究する立場を
実存主義といいます。


実存主義は、神など人間を超越した存在と対話する
有神論的実存主義(キルケゴール、ヤスパースなど)と、
無神論的実存主義(ニーチェ、ハイデガー、サルトルなど)
に分かれます。


スミスの自由放任主義は、
道徳を無視して私益を追求してもいいということではない。
したがって単純な市場原理主義ではない。


人々が自分の行動の目的を見失うニヒリズムの時代の到来を
確信したニーチェは「神は死んだ」と宣言します。
このような時代の中、自分自身で新しい価値を作り出す
能動的ニヒリズムという生き方と、
既存の価値の損失によって、
生きる気力を失ってしまう受動的ニヒリズムがあると
ニーチェは言います。


ニーチェによれば人間の弱者は束になって、
実際の力ではかなわない強者を
「思いやりがない」とか「欲が深い」と決めつけ、
精神的に優位に立とうとします。
このような畜群本能が道徳という価値を
捏造したのだとニーチェは考えました。


ユングは、人間には個人の経験による無意識のもっと奥底に、
全人類に共通した集合的無意識(普遍的無意識)が
あるのではないかと考えました。


エポケーとは、当たり前に存在してると確信している物事を
一旦かっこに入れて疑ってみることです。
目の前にリンゴがあったら、私たちはその存在を確信します。
なぜ確信するのかをつきとめるために、
まずリンゴの存在を徹底的に疑って(エポケーして)みましょう。


ポパーによれば、科学的な理論は
「今のところ反証されていない論理」と
言い換えることができます。
これに対して疑似科学は、
直感や感性で成り立っているので、
反証のしようがないわけです。


本来、模像にはオリジナルがあります。
キャンバスに描いた風景画のオリジナルは現実の風景です。
けれども、コンピュータ上に描いた自分の未来に
オリジナルは存在しません。
ボードリヤールはオリジナルのない模像をシミュラークル、
シミュラークルを作り出すことをシミュレーションと呼びました。
オリジナルが存在しない以上、その模像は実体となります。
ボードリヤールはオリジナル(現実)と模像(非現実)の
区別がつかない現代のような状態を
ハイパーリアルと呼びました。


彼は人間の終焉は近いと断言します。
「人間」は自分の意思で主体的に行動しているわけではなく、
社会の構造に縛られていることが
明らかになりつつあるからです。





engineer_takafumi at 01:26│Comments(0) ★一般書の書評 | ⇒ その他の本

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