2018年04月14日

キャラクター小説の作り方

本日は大塚英志 氏の
キャラクター小説の作り方
です。
キャラクター小説の作り方 (星海社新書)

本書は漫画原作者(編集者)、民俗学者、小説家など
多彩な分野で活躍されている著者による
小説のキャラクターの作り方についての本です。

「なぜ、スニーカー小説にアニメ絵が使われるのか?」
という問いかけから始まり、
キャラクター作りのポイントを説きます。

少し文学的、哲学的な話になって
ついていけない部分もありましたが、
キャラクター作りが小説作りそのものであること、
キャラクターを軸とした物語の展開方法などが
わかりやすく書かれています。

特に世界観の作り方とキャラクターとの関係、
「面白さ」の作り方の部分は、とても興味深い内容でした。


個人的には、「世界観」の細部に、
「テーマ」という神を宿らせなくてはなりません、
という部分が印象的でした。

細部に神が宿るなどといわれますが、
その意味の一片が見えた気がしました。


小説に限らず、マンガ、動画などの制作に携わっている、
ストーリーを作る全ての人にお勧めの一冊です。
キャラクターを中心に物語をどのように作るか、
という問題の答えが見えてくるかもしれません。





「スニーカー文庫のような小説」は
アニメやコミックという世界の中に存在する虚構を
「写生」する小説だ。


ぼくたちが書こうとするのはまんがのような、
アニメのような、ゲームのような小説であり、
そしてその中心にいるのは「私」ではなくて「キャラクター」です。


表現というものは欠点の方が長所よりも模倣され易い


ぼくたちは全くなものないところから
すべてを作り出すのではなく、
先人の作った財産の上にあくまで物を書いているのです。


ぼくが『サイコ』のアイデアを作っている時点で、
サイコサスペンスにおいて犯人が実は多重人格というのは
すでにあまりにありふれた設定でした。
だから僕は多羅尾伴内に倣って
多重人格を「探偵」の方の設定としたのです。


元ネタのキャラクターを一度、抽象化する、という手続きです。
名前や年齢やキャラクターが属する「世界観」を
すべて取っ払っていって「七つの顔を持つ探偵」であるとか
「頭がスケルトンの男」といった程度の
キャラクターの固有性が消滅するレベルにまで抽象化します。
その上で、そこに改めて元ネタとは全く異なる
外見や性別や名前や時代背景を与えてあげればいいわけです。
そして言っちゃなんですが、
このレベルにまで抽象化してしまえば
キャラクターのパターンなんてこの世に
そう多くは存在しないのです。


「左右の目の色が違う」という設定が、
これから展開していくドラマに
いかに不可分に結びついているか否かが重要だ、
ということになります。


上手くいった作品は主人公の外見的、身体的な特徴
(多重人格とか全身が人工身体とか)が、
その主人公のその後の行動、
つまり「物語」に自然に結びついているのです。


物語とキャラクターが噛み合わないのは
そもそもキャラクターの設定から物語が
論理的に導き出されていないからです。


まんがの絵に限らず特定の作者の作風の模倣が可能なのは
「画風」、つまり作者の「個性」と見なされているものが、
実はパターンの組み合わせだからです。


同居パターンはさらに細かく以下のパターンに分類できます。
1,偶然同居型
不動産屋のミス等で全く何かの偶然で見知らぬ男女が同居することになってしまい恋が芽生える。
2,両親再婚型
それぞれの両親が再婚してしまった結果、同じ年頃の男女が家族となる。
3,幼なじみ型
隣り合った家に幼なじみの男女として育ち勉強部屋が向かい合っていて行ったり来たりできる。
4,下宿型
下宿や寮で男の子と女の子が一緒になる。
5,押しかけ同居型
突然、不思議系の女の子(人間以外を含む)が男の子の部屋に押しかけてくる。
6,近親恋愛型
自分の実の妹もしくは姉に(だから同然同居している)許されぬ恋心を抱いてしまっている


他の分野の小説や映画、あるいは80年代以前の
まんがやアニメはキャラクター作りの
「パターン」の宝庫であることは確かです。


鉱脈を自分で探し出して、
自分専用の「パターン」のリストを作り上げられれば
それは「個性」であり「オリジナリティ」
ということになるのです。


「主人公」というキャラクターは「目的」を明瞭に持ち、
それを達成してくれる存在こそをいうべきです。


「何かが足りない、楽しくない」と呟くこの「欠けた丸」こそが、
主人公としてのキャラクターの一番、
根源的な形だと言えるのかもしれません。


「欠けている」→「それを回復する」というのが
「お話」の一番根源的なリズムの一つだからであり、
そのリズムに乗れれば、それに併せて
「何が欠けているか」を考えることは
そんなに難しくありません。


アメリカ的な価値観に世界が染まっていくことに
反発したテロリストたちの行ったことが、
ハイジャックをしてビルに突入するという
アメリカのエンターテイメント小説のストーリーと
結果としてそっくりであった、
というのは偶然ではありません。
テロリストの想像力さえ、
アメリカ映画的な枠組みの中で結局は動いてしまっている
ことのそれは悲しい証明なのです。


「文学」にも否応なく、ハリウッド的なもの、
サブカルチャー的なものは侵入し、
作家たちはどこかで「映画のような小説」を
書くようになってしまっています。
問題はそのことに敏感であるか否かです。


ミステリー小説は江戸川乱歩が自己規定をしたように
リアリズムという近代小説のルールの外にある表現です。
殺人はわざわざ密室で行われ
犯人はわざわざ暗号やトリックを残します。
つまり人の死は探偵によって解かれる
パズルゲームでしかないわけです。


映画やまんがやミステリーが人の死を
記号的にしか描けないという限界を自覚した上で
「現実」との関わりを模索しているのに対して、
「ゲーム」や「ゲーム」を出発点とする
「ゲームのような小説」はその努力が
ぼくには乏しいように思えてなりません。


同じ場所が繰り返し現れていないか。
その繰り返しが意図して効果を狙ったのでなければ、
主人公たちがお芝居をする場所に変化をもたせましょう。
それだけでストーリーの単調さがかなり解決されます。


長過ぎるので二つ以上に分割するか、
同じ内容を繰り返しているので
どちらか一つが不用な場面ではないか。
その場合は場面を増やしたり減らしたりして下さい。


前の場面で敷いた伏線を受ける場面は
ちゃんと用意されているか。
用意されていなければどこかの場面にいれるなり、
新しく場面を作りましょう。
あるいはそもそもその伏線はいらないのかもしれない、
とも考えてみましょう。


読者に伝えるべき情報が何もない場面がないか。
例えば「主人公の超能力のすごさを見せる」のが
目的のアクション中心の場面がいくつもある、
なんていう場合もじつは「伝えるべき情報」が
そもそもそれでいいのか、
自分で疑ってかかる必要があります。


破綻していても無理やり読ませてしまう、
というのがプロの書き手であって、
読者であり将来は作者を目指すあなたたちは
「物語が破綻している」などとしたり顔で
言うだけの人たちを決して見習わないで下さい。


『ロードス島戦記』という小説が最終的に出来上がるのには
いわば三つの異なる立場が存在した、とも言えるのです。
つまり、世界観及びルールを作るゲームデザイナー、
その中で成立する具体的な一本一本の
お話たちを管理するゲームマスター、
ゲームマスターにリードされて役割を演じる
キャラクターたちの三つです。


二つの番組に共通のパターンを少しだけ抽象化して
こんなふうにまとめてみましょう。
1,何かが欠けている(お金がなかったり、救急医療制度がなかったりという状態)
2,課題が示される(新しいレシピを覚える、今の技術では治せない患者さんが出現する)
3,課題の解決(レシピや治療法を身につける)
4,欠けていたものがちゃんとある状態になる(お金が入ってくる、救急医療が確立する)


小説の選評などによく主人公の行動原理が
一貫していない的なことが書かれているのは、
主人公が自分に「欠けているもの」
(お金でも愛でもそれは何でも構いません)を
手に入れるために「試練」に挑んでいるのに、
途中で「欠けているもの」を主人公も作者も
忘れてしまうから起きるわけです。


「おもしろさ」には
1.他人の私生活や読者が知らない未知の体験のもたらす「おもしろさ」、
2.お話の法則に支えられた「おもしろさ」、
の二つが実はあるのです。


「世界観」とは繰り返しますが「世界」の「観」方です。
作中のキャラクターが「世界」をどのように「観」て、
受けとめるかということが
キャラクター作りにおいて不可欠であり、
同時に「世界観」作りにおいて
最も見落とされている点でもあるのです。


「設定」とかつて呼ばれていたものを敢えて「世界観」と
呼び換えたことの意味は多分、そこにあります。
「世界観」とは読者がキャラクターの目を通じて
「観」る「世界」でなくてはなりません。


キャラクターの「個性」というものは実は、
1,キャラクターの性格や生い立ちその他の個人の特殊性に由来するもの
2,キャラクターが所属する「世界」の物の見方の価値観に由来するもの
の二つから成り立っています。


その大半が架空の「世界」を舞台としています。
つまり小説家であろうとするあなたたちがたった今、
生きている「現在の日本」とは違う「世界」です。
違う「世界」にあなたのキャラクターが生きている、
ということは当然、「世界」の「観」方(あるいは受け止め方)に
違いが生じなくてはなりません。


架空の「世界」を読者にリアルに感じさせるには、
その「世界」に根差した物の見方や行動をする
キャラクターが不可欠ですし、
逆にキャラクターをリアルに表現するのは
作者が生きている現実の「世界」ではなく、
架空の「世界」との関わりの中で
表現しなくてはいけないのです。


「海面が上昇した」という「ズレた世界」における
「世界観」を構築していく作業は、
その結果、世界がどう変わったか、と
イマジネーションしていくことを意味します。


「細部」とは互いに矛盾していないかが問題ではなく、
それが作品の主題と結びついているかが
主要なポイントなのです。


ぼくたちは「世界観」の細部に
「テーマ」という神を宿らせなくてはなりません。


ハリウッド映画の「物語」のように
現実の戦争を始めようとしているのが
アメリカや日本の政治家たちであり、
テレビや雑誌に登場する大人たちでもあったわけです。
虚構と現実の区別がつかないのは、
おたくやゲームファンではなく、
政治家やジャーナリストなのです。


『ハリウッド脚本術』はストーリーの構成要素として
以下の10の項目を上げています。
1,バックストーリー
2,内的な欲求
3,キッカケとなる事件
4,外的な目的
5,準備
6,対立(敵対者)
7,自分をハッキリさせること
8,オブセッション
9,闘争
10,解決


敵対者は主人公よりも強大で強力で、
より多くの資金を持っている必要がある。
もし敵対者が主人公よりも強力でなければ、対立は存在しない。
主人公は簡単に敵対者を負かして、何の妨害も受けずに
自分の目的に到着してしまう。
敵対者は必ずしも邪悪な存在である必要はないが、
彼らは主人公の目的と衝突するような目的を持っている。


敵を「正義」のために次々と倒し最後には必ず勝つ
「無敵」の主人公をあなたたちが
全く無自覚で書いてしまうことは、
自分の小説の可能性をせばめることに他ならない、
ということを伝えておきたいのです。


『キャラクター小説の作り方』の中で
ぼくが最終的に提案したのは、
キャラクター小説を私小説との対照で用いることだ。
私小説が「私についての語り」だとすれば、
キャラクター小説とは「キャラクターについての語り」である。


「物語のように心地良く進む現実」について
冷静になる術として「物語論」は必要。







engineer_takafumi at 16:25│Comments(0) ★一般書の書評 | ⇒ クリエイティブ

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