2018年10月24日

デイヴィッド・オグルヴィ 広告を変えた男

本日はケネス・ローマン 氏の
デイヴィッド・オグルヴィ 広告を変えた男
です。


本書は『現代広告の父』と呼ばれるオグルヴィを
近くから見ていたオグルヴィ・アンド・メイザーの
元CEOのケネス・ローマンによる
オグルヴィの一生を描いた本です。

膨大な文献調査とインタビューの結果生まれた本書で
出生から、この世を去るまで、
詳細にオグルヴィの人生を辿ることができます。

貧しいが高貴な生まれ、料理人、セールスマン、
調査員、スパイ(第二次世界大戦中)など
さまざまな職を渡り歩き、広告で非凡な成果を出す
ドラマのような人生が500ページ弱に詰められています。

あくまで『売る』ことにこだわる姿勢、
強い好奇心をもち、リサーチを重視したこと、など
読み進めると彼の成功のカギが見えてきます。

また、飛行機が怖くて、丸三日かけて汽車で移動したなど、
パーソナリティが感じられるところも興味深かったです。


最後の部分になりますが、個人的には、
アルバイトを奨励する。
とくにコピーライター諸君には。
という箇所が一番印象的でした。

オグルヴィ自身が様々な職業を経験してきたことが、
彼の成功に繋がったのだと思います。
ですから、広告人に色々な職業体験をすすめるのでしょう。


広告業界に携わる人には必読の一冊ではないでしょうか。
彼の人生を学ぶことは業界で必須の教養であると
思わせられた本でした。



教養あるイギリスなまりのしゃべりは芝居がかかっていた。
つねに舞台の真ん中がどこかを見きわめるセンスがあって、
どうすればジェスチャーを印象づけられるのかの
勘も鋭かった。


自分さえ宣伝できないようじゃ、
他のものを宣伝できるはずがないだろう?


オグルヴィの最大の秘密は、詮索好きだったことだ。
人と話をするときにももったいぶることは絶対にない。
とにかく訊きまくる。


特に興味があったのは、
金持ちがその金をどう使ったかだった。


広告会社オグルヴィ・アンド・メイザーのルーツは、
19世紀半ばに創立されたイギリスの広告会社だ。


君がコピーライターなら、
妻に話しかけるように書くことだ。
そうすれば、くだらないたわごとは言わないはずだ。


若いころ、広告について述べた自分の文章から
わかることは二つ。
A)25歳の私には輝かしい才能があった。
B)それから27年間、新たに学んだことはひとつもない。


随一の大物コピーライターであったホプキンスは、
ロード・トーマスのクライアント企業の売上げを
確固たるものにする並外れた力を高く評価され、
雇い主であるアルバート・ラスカーからは、
現在の価値に換算して4000万ドルもの俸給をもらっていた。
『広告マーケティング21の法則』は、
出版するには貴重すぎると考えたラスカーは、
20年もの間この原稿を金庫にしまったままだった。
1966年の再販
(金庫から出されてからもうずいぶん経ったころだ)
に寄せたオグルヴィの序文では、
この本にどれほど大きな恩義を受けたかが
はっきり語られている。


ダウの4分の1はクレンジングクリームです――
洗っている間にお肌が潤います。


ラジエーターを除けば、同じエンジニアが設計し、
同じ行程でつくられる、まったく同じ車だ。
ロールスロイスに乗るには気後れする
という向きには、ベントレーがある。


バウワーやマッキンゼーと付き合うことによって、
広告を「知的職業」にしなければならないという
オグルヴィの思いはますます強くなった。


広告に目をとめてくれたことに対して、
読者に何らかのお返しをすること。
ヘッドラインには必ずブランド名を入れること。
ボディコピーを読まなければ何を言っているのか
わからないような意味のないヘッドラインを書かないこと。


オグルヴィは「うちの社員は全員帰れ」と言って
一人でプレゼンを行い、アカウントを獲得した。


前のめりになるってことは、
この話に興味があるということだ。
君がすでに二回も同じプレゼンを聞いたなんてことは
どうでもいいんだ。


その男は38歳、失業中。大学中退。
コック、セールスマン、渉外担当の経験がある。
マーケティングの知識は皆無。
コピーを書いたことは一度もない。
広告を一生の仕事にしたいと言い張り、
年棒5000ドルもらえればただちに仕事にかかるという。


商品について正しいことを言うことはできるけれども、
それでは誰も耳を貸してはくれない。
心を動かすような言い方をしなければならない。
何も感じなければ、何も起きないからだ。


兄と同じようにディヴィッドも諜報機関で
働いている間に、ものを書くことを身につけた。


今日の広告のルーツを振り返れば、
その基礎はオグルヴィよりもむしろ
バーンバックが築いたと言えるだろう。


飛行機が怖いオグルヴィは、飛ばずにすませるために、
驚くほど遠いところにも陸路で出かけた。
(中略)
デリーのオフィスからチェンナイ(マドラス)まで、
72時間かけて列車で移動した。


オフィスでコピーを書くことは決してしなかった。
「邪魔が入りすぎる」。
オグルヴィはまず、過去20年間の
競合商品の広告すべてに目を通すことから始める。
「温故知新だ」。
それから、ヘッドラインを書きはじめる。
そして、いよいよこれ以上先延ばしできない
というときになって、ようやくコピーを考えはじめる。


オグルヴィ・アンド・メイザーを世に出し、
育てたのは自分だと思っていた。
それが、残忍なやり方で取り上げられてしまったんだもの


オグルヴィは財務方面にはまったく才覚がないということは、
すぐに明らかになり、
金融界はもっと実力のある会長を求めはじめた。


広告業界が自分の軽蔑する方向に向かっていくと、
改めて二つの確実な支えを築きはじめた。
リサーチと、ダイレクト・マーケティングだ。


「我々は売る。そうでなければ存在価値がない」。
これは、オグルヴィにとって最後のスローガンになった。


オグルヴィが考えた方策は、
切り離されたダイレクト・レスポンス部門を、
会社の主要部門と統合し、
普通の広告をつくることを許される前に、
"一人残らず"まずはダイレクト・レスポンスの広告を書く
見習い期間を経るというものだった。


広告の実務をもっとプロフェッショナルに
しようというオグルヴィの試みは、まずリサーチと、
それによって明らかになる知識から始まった。


人間というものは、単に合理的な理由だけで
ブランドを選ぶのではないことに気づいた彼らは、
消費者の内なる魂に語りかけていた


リサーチこそが彼の出発点だったのは確かだが、
クリエイティブなプロセスにおいて、
無意識が重要であることも、オグルヴィはよくわかっていた。
ビジネスマンのほとんどが、新しいアイデアを探すにあたって
理性に頼りすぎているとし、
「無意識について何も知らないことほど危険なことはない」
と確信していた。


何よりも、彼は「知りたがった」。


ひたすら、「人」にもっと注意を向けるようにアドバイスした。
社員についてどれほど時を費やして気づかったとしても、
どれほどチャンスや報酬を与えたとしても、
これで十分ということはない、としつこいほど諭した。


私は『売る』広告を売り込みつづけ、
広告はエンターテイメントだと考える輩は
こてんぱんにやっつける。
クライアントが欲しいのは結果だという信念とともに墓に入ろう。
もし、そうではないと広告業界が信じるようなら、
墓に入るのは業界のほうだ


妻である私たちは、彼の人生に入ってはいきましたが、
彼の本当の人生は広告会社にあったのです


人に何かを読んでもらいたいのなら
黒字に白抜き文字にすべきでない、
という主張はじつに理にかなったルールだ。


ダイレクト・マーケティングを広告の本流に持ち込み、
「ダイレクト・マーケティングの専門家ではない」
広告人でありながら、ダイレクト・マーケティングの
殿堂入りを果たした。


AP通信は、オグルヴィのもっとも偉大な遺産は、
消費者には知性があるという前提で
広告に望んだことだと記した。


2000年、「憎むべき小男」マーティン・ソレルは、
女王陛下エリザベス二世から、オグルヴィが生涯憧れつづけ、
結局は手に入れられなかった究極の名誉を授与される。
ナイトの称号を持てなかったことは、
オグルヴィの人生における
二つの大きな悔いのひとつだった。
もうひとつは、会社の株を公開したことだ。


アルバイトを奨励する。とくにコピーライター諸君には。


アルバイトに反対する者は卑劣なやかまし屋だ。
ルールは二つだけだ。
1、競合するアカウント、あるいは他の広告会社のアルバイトをしてはいけない。
2、仕事中にアルバイトをしているところを見つかってはいけない。






engineer_takafumi at 23:56│Comments(0) ★一般書の書評 | ⇒ クリエイティブ

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