2018年11月22日

人間性の心理学

本日はA.H. マズロー の
人間性の心理学
です。


本書は「欲求の段階説」の提唱で有名な
心理学者マズローによる「現代の聖書」
とも言われる一冊です。

原著(米国)の初版が1954年となっており、
古典に近い名著になります。

訳書で古い本、そして500ページ以上のボリュームと
読みやすいとは言えませんが、それなりの価値があります。

心理学の本としてはもちろん、
「自己実現的な人間」について語っているため、
自己啓発本としても読める本です。

その中でも、「自己実現的における愛」という章が
大変興味深かったです。

自己実現的な人間が性をどのようにとらえているか、
これは普通の自己啓発本にはない、心理学者ならではの
視点で「愛」のあるべき姿が理解できました。

また、有名な「欲求の段階説」についても、
原著に触れることにより理解を深められました。


個人的には、
自己実現者は性的行為や身体的な求愛行動において、
能動的にも受動的にもなれる
という部分が一番印象的でした。

自己実現者は男性だから、女性だからという
固定観念を持っていないようなのです。

これが理想的な姿なのですね。


自己啓発のセミナーを行う人にお勧めの一冊です。
通読するのは大変ではありますが、
それだけの話題を与えてくれることでしょう。




自己実現者は、人間の不幸の深い原因から比較的免れている。
つまり彼らは「感謝する」ことができるのである。
恩恵の幸運を意識しているのである。


人間の価値感によって自然、社会あるいは自分自身に関する
知覚を歪曲してしまうことを防止する唯一の方法は、
常にそうした価値観を十分意識し、
我々の知覚に及ぼす影響を理解し、
それをもとに適切な修正をほどこすことである。


手段中心的傾向には「問題設定者」や問題解決者よりむしろ、
技術者や「装置取扱者」の方を、
科学における中心的位置に押し上げていく傾向がある。


手段中心科学者は、問題に技術を合わせるのではなく
問題を技術に合わせてしまう傾向がある。


一つの行為あるいは一つの意識された願望が、
たった一つの動機づけによるということは
めったにないとうことである。


一般に、より低次の欲求を満足すると高次の欲求に
移行するということは事実であるが、
しかし、ひとたびこれらの高次の欲求レベルや
それに伴う価値・嗜好などが達成されると
それは自律的になり、もはや低次の欲求満足には
依存しなくなるという現象が観察される。


高次の欲求を探求し満足することは、
一般的に健康への方向をたどり、
精神病理から遠ざかることを表す。


高次の欲求と低次の欲求を共に満たした人は、
通常、低次の欲求よりも高次の欲求に
大きな価値を認める。


高次の欲求を探求し満足することは、
社会的にも好ましい結果をもたらす。


このように、動物から人間を推論して攻撃性を説明する
議論の誤りは動物中心主義といえる疑似科学的考えに
よく見られるものである。


自己実現的人間の特徴の一つは、彼らが比較的、
物理的環境や社会環境から独立していることである。
自己実現者は、欠乏動機よりも成長動機によって
動かされているので、彼らの満足は現実の世界は他の人々、
文化や目的達成のための手段などといった、
一般にいう外部の非本質的な満足のいかんによるものではない。
むしろ、彼らは自分自身の発展や、たゆみない成長のために、
自分自身の可能性と潜在能力を頼みとする。


彼らがユーモアとみなすものの特徴は、
他の何よりも哲学に類似している。
(中略)
おそらく、リンカーンはけっしてほかの誰かを
傷つけるような冗談は言わなかったのであるが、
彼の冗談のほとんどすべてには、
何か言わんとするところが含まれていて、
ただ笑わせるということ以上の働きを
もっていたようである。


彼らがアメリカ文化のなかから
自分たちの考えでよいと思ったものを選び出し、
悪いと思ったものを拒絶しているのがわかる。


自己実現的な人間に見られる文化からの超越は、
これまで記したように、他の人々から
超然としていることやプライバシーを好むということのほかに、
見慣れたものや慣習的なものを必要をする度合いが
平均より少ない。


何かの欠けている人にとっては、世界は危険なところであり、
未開墾地であり、(1)自分が支配することができる人と、
(2)自分を支配することができる人が住んでいる敵地である。


互いに愛しあっている二人の間には、
他人には理解できないような秘密の言語、秘密の性的な言葉、
そして恋人同士だけが理解できる特別の冗談や身振りが
つくられていくのを私はしばしば見たことがある。


自己実現者においては、関係が長くなればなるほど、
愛し合うことによって得られる満足、
および性的な満足が増すという確かな事実である。


自己実現者は男性でも女性でも概して、
性をそれ自身のために求めようとはしないし、
機会があっても性だけで満足しようともしない、
そのような傾向がある。


彼らは性を心から楽しむことができ、
それは平均的な人をはるかにしのいでいるのだが、
同時にそれは、人生観においては何ら
中心的な役割をしてはいないのである。
性は楽しまれるべきもので、
当然のことと考えられるべきである。
(中略)
自己実現者が平均的な人間よりもはるかに強烈に
性を享受しながらも、同時に全体的な準拠枠のなかでは、
性をそれほど重要なものとは考えてないという、
明らかな逆接は解決される、


自己実現的愛は多くの自己実現の特徴を示す。
たとえば、その一つとしてあげられるのは、
彼らの愛は自己および他者の健全な受容に
基づいているということである。


誰かに性的に引かれるという事実を、
平均的な人々と比べるとはるかに隠しだてをしたり
あれこれいったりしないで認めることができる。


私が健全な人々のなかに見つけた
もう一つの愛の特性は、
彼らが両性間の役割や人格にはっきりとした
性別をつけないということである。
すなわち、彼らは性においても、愛においても、
また別のことがらにおいても、女性が受動的であり、
男性が能動的であるとはみなさないということである。


これらの人々はみな、自分たちの男性らしさや
女性の場合は女性らしさに自信をもっているので、
文化的に規定された異性の役割のいくつかを
担うことをいとわない。
殊に彼らが人を愛する時には能動的にも受動的にも
なれるということ、そして、このことが
性的行為や身体的な求愛行動において、
最もはっきりと示されるということは注目に値する。


能動性のみとか受動性のみというように、
どちらか一方に限られることは
欠陥とみなされている。
自己実現者にとっては、能動性、受動性の双方が
それぞれ特別の悦びをもっているのである。


ある人を愛することは、その人を所有することではなくて、
その人を肯定することなのである。


他者の尊敬に関する最も印象深い一例は、
妻の業績がたとえ夫の業績を
顔色なからしめるものであっても、なお、
妻の業績を心から誇りに思うというようなことである。
別の例として、嫉妬心がないことがあげられる。


愛と尊敬はしばしば分けられないもので
あるのにもかかわらず、分離することもできる。
愛さずに尊敬することはできる。
そして、それは自己実現の水準においてさえも可能である。
尊敬することなしに愛することができるかどうかについては、
あまり確信はないが、しかしこれもまた
可能性はあるかもしれない。
愛情関係の側面あるいは属性と考えられる特質の多くは、
尊敬関係の属性と見なされることが非常に頻繁にある。


愛はそれ以上のどんな理由も限界をも求めはしない。
愛はそれ自身が実を結んだものであり、
それ自身の喜びなのである。
私は愛するが故に愛するのだ。


自己実現的人間について報告されたもののなかで
最も目立ってすぐれていることの一つに、
彼らの並はずれた知覚能力があげられる。
彼らは平均的な普通一般の人たちよりも
ずっと効果的に真実や現実を知覚することができるのである。


健康な人たちは、他の人ならばまさにその欠点故に
好きにならないであろうそういう人たちをも
愛することができるからである。
しかしながら、この愛ゆえにその欠点に
気づいていないのではない。
ただ、これらの知覚された欠点を大目に見たり、
さもなくばそれを欠点に気づいていないのではない。


我々の資料は、一般的に受け入れられている
二つの説と矛盾するものである。
その一つは異なるもの同士が引きつけあうという理論で、
他の一つは似た者同士が結婚する(同質性)
というものである。


科学者は、自分が何かあることを知っているから何かを見る。
しかし、芸術家は見ているから何かを知るのである


名前が何か役に立ちまして?
名前をお知りになりますと、それで貴方は満足して、
もう花を楽しもうとはなさらないでしょう


パーソナリティと生育暦について質問しただけで
他にはなにもしないのに、私が手がけていた
パーソナリティの歪みそのものが
治ってしまったことがたびたびあった


よい環境はよい人格を育むのであるが、
この関係は完全とは言いがたく、
さらによい環境の定義は、物質的・経済的な力と同様に、
精神的・心理的な力に重点をおくように
著しく変化するのである。


自己実現的な人間にとって、反復や観念連想、
いたずらにほうびを与えることなどは、
次第に重要なものではなくなってきている。


思考は常に管理されていたり、組織されていたり、
動機づけがなされていたり、
目標に向かっているものとはかぎらない。
空想、夢、象徴化、無意識的思考、幼稚症、
情緒的思考、精神分析的自由連想などは、
すべてそれぞれの方法で生産的なものである。
健康な人は、これらの方法の助けを借りて、多くの場合、
結論や決定に到達するのである。
これらは従来、合理的に反しているものと
とらえられてきたが、実際には共働的に働くものなのである。


自己実現を達成できずにいることは
何でも精神病理として見るように学習しなければならない。
それほど劇的でもなく、急迫したものでなくても、
平均的な、また正常の人も精神病と同じように症例となる。


妻や子どもの死、破産などのショックな経験が、
個人に対し一時的に大きく精神的なバランスを
崩させることがあったとしても、
たいていの場合ほとんど完全に回復する。
健康な人格構造に対して永久的な変化をもたらしうるのは、
外部に、あるいは人間関係において
慢性的な悪条件が存在する場合のみである。


不安定な人間は全く一貫して不安定になろうとする傾向がある。
自尊心の強い人には、
さらに自尊心が全面的に高まるような傾向がある。






engineer_takafumi at 20:42│Comments(0) ★一般書の書評 | ⇒ 勉強・教育・心理

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