2019年10月05日

ファスト&スロー あなたの意思はどのように決まるか?

本日はダニエル・カーネマン氏の
ファスト&スロー あなたの意思はどのように決まるか?
です。


本書はノーベル経済賞を受賞した行動経済学の創始者が、
人間の行動の本質をまとめた本です。

上下巻合わせてかなりのボリュームになります。

この本を読むと、人間の判断というものが、
いかに環境に左右されているか、
いかに非合理なバイアスがかかっているか
ということがわかります。

例えば、裁判官の判断が疲れて空腹になると、
被告人に厳しくなったりとか、
人間の目の絵によって、寄付額が上がったり、
道徳的な行動をとるようになるそうです。

率直に言えば人間というものは、
いかに「バカ」なものなのかわかります。

それも、一般的に教養的に見られている人でさえ
そうなのです。

ただ、我々は人間である以上、
これらの結果を自覚して、
少しでも合理的な判断をしなくてはいけないと思います。

まず、そのバイアスを「知る」という意味で
本書は大きな意味がある本と言えるでしょう。

後世に残すべき名著だと感じました。


個人的には、
人間はランダムなものにさえ、
因果関係を創出しやすい、
という箇所が特に印象的でした。

合理的に判断するためには、
もっとランダム性を重視して、
統計情報を活用するように
しなくてはいけないようです。


教育者、法曹者、政治家など、
人や社会に関わる人にお勧めの一冊です。
大書なので読むのは労力が必要ですが、
その価値は十分得られるれるでしょう。
人の行動の本質を学べます。




エラーの中でも特定の状況で繰り返し起きる
系統的なエラーはバイアスと呼ばれ、
予測が可能だ。


私たちは連想によって考えることは簡単にできるし、
比喩で考えたり、因果関係で考えたりすることもできる。
だが統計的思考では多くのことを
同時に扱わなければならず、
システム1はそのような設計にはなっていない。


私たちは、自分の理解の度合いを過大評価する一方で、
多くの事象で偶然が果たす役割を過小評価する傾向にある。


第一に、私たちは全く明らかなものにさえ
気づかないことがある。
第二に、そうした自分の傾向に気づいていないことである。



私たちが教えられたのは、
たび重なる治療の失敗の話をする患者に強く惹かれるのは、
平行線につけられた羽根に気をとられるのと同じで、
危険な兆候であるということである。


システム2が自分で選んだと信じている考えや行動も、
じつはシステム1の提案そのままだったということが、
往々にして起きる。


システム2が忙殺されているときには、
システム1が行動に大きな影響力を持つようになる。
そしてシステム1は甘党なのである。


認知的に忙しい状態では、利己的な判断をしやすく、
挑発的な言葉遣いをしやすく、社会的な状況について
表面的な判断をしやすいことも確かめられている。


自我消耗を起こした人は、
「もうギブアップしたい」という衝動に
いつもより早く駆り立てられる。


疲れて空腹になった判定人は、申請を却下するという
安易な「初期設定」に回帰しがちだ、ということである。
この場合、疲労と空腹が重なったことが
消耗の原因と考えられる。


たいていの人は、結論が正しいと感じると、
それを導くに至ったと思われる論理も
正しいと思い込む。


子供たちが注意力をコントロールする能力は、
自分の感情をコントロールする能力と
密接に関連することも確かめた。


直感を無批判に受け入れる人は、
システム1からの提案は何事によらず受け入れる傾向がある。
具体的には、こうした人たちは衝動的で、
せっかちで、目先の満足を貪欲に追い求める。


双方向性のプライミング効果は、
整合的な反応を促す傾向がある。
すなわち、高齢というプライムを受けると、
老人らしく行動する。
逆に老人らしく行動すると、高齢という観念が強められる。


横向きの鉛筆をくわえた(本人は笑っているつもりはないが)
笑顔の被験者は、縦向きでしかめ面の被験者より、
マンガを面白いと感じたのである。


この条件でラジオの論説番組を聞いてもらったところ、
上下すなわち頷く動作をしたグループは論説に賛成し、
左右すなわち否定の動作をしたグループは反対した。


お金のプライムを受けた被験者は、
受けなかったときより自立性が強まったのである。
彼らは難問を解くのにいつもの二倍もの時間
粘り強く取り組んだ末に、ようやくヒントを求めた。
これは自立性が高まった顕著な証拠と言える。
しかしその一方で、利己心も強まった。
彼らは、他の学生
(じつはサクラで、与えられた課題がよくわからなかったふりをしている)
の手助けをする時間を惜しんだ。
また、実験者が鉛筆の束を床に落としたとき、
拾ってあげた本数が他の学生より少なかった。


お金という観念が個人主義のプライムになる
ということである。
すなわち、他人と関わったり、他人に依存したり、
他人の要求を受け入れたりするのをいやがる。


独裁国家の指導者の写真がそこここに飾られていたら、
「見張られている」という感覚を与えるだけでなく、
自ら考えたり行動したりする気持ちが失せてしまうことに、
疑いの余地はあるまい。


国民に死を暗示すると、権威主義思想の訴求力が
高まることを示唆している。
死の恐怖を考えると、
権威に頼るほうが安心できるからだ。


大きく見開かれた目が
こちらをじっと見ている写真が登場した。
この週に投入された金額は、
ミルク1リットル当たり平均70ペンスである。
二週目には花の写真で、投入額は平均15ペンスだった。
この傾向はその後も続き、平均すると
「目の週」の投入額は「花の週」の約3倍に達した。
明らかに、「見られている」ことが象徴的に示されただけで、
スタッフの行動は改善されたと考えざるを得ない。


連想記憶マシンをスムーズに動かす要因は、
例外なくバイアスを生む。
誰かに嘘を信じさせたいときの確実な方法は、
何度も繰り返すことである。
聞き慣れたことは真実と混同されやすいからだ。


ありふれた考えをもったいぶった言葉で表現すると、
知性が乏しく信憑性が低いとみなされる


誰かの文章や参考資料を引用するなら、
発音しやすい人が書いたものを選びなさい


ほとんどの場合には、怠け者のシステム2は
システム1の提案をあっさり受け入れ、
そのまま突き進む。


頻度の最も高かった単語は、
一回か二回しか登場しなかった単語に比べ、
「よいこと」を意味すると考えた人が
はるかに多かったのである。


人間は物理的な因果関係と
意思的な因果関係を区別するように生まれついており、
ほぼ普遍的に宗教信仰が見られる理由は
それで説明できる。


人間には、統計的な推論をすべき状況で
因果関係を不適切に当てはめようとする傾向がある


実験後に行われた記憶テストでは、
数字を覚えているせいで疲れ切った参加者は、
大量のまちがった文章を正しかったと考えるようになった。
このことが示す意味は重大である。
システム2が他のことにかかり切りのときは、
私たちはほとんど何でも信じてしまう、ということだ。


「仮説は反証により検証せよ」と
科学哲学者が教えているのにもかかわらず、
多くの人は、自分の信念と一致しそうなデータばかり探す


ハロー効果によって最初の印象の重みが増し、
あとのほうの情報はほとんど無視されることさえあるからだ。


ある事件に複数の証人がいる場合、証言をする前に
証人同士がそれについて話し合うことは許されない。
これは、証人同士の共謀を防ぐためだけではなく、
バイアスのかかっていない証人たちが
互いに影響をおよぼし合うことを避けるためである。


ストーリーの出来で重要なのは情報の整合性であって、
完全性ではない。
むしろ手元に少ししか情報がないときのほうが、
うまいことすべての情報を筋書き通りに
はめ込むことができる。


がっしりとした顎と自信あふれる微笑という組み合わせが
「できる男」という雰囲気を醸し出す。
実際には、そういう顔をしているからといって、
政治家として活躍できるという証拠は何もない。
だが当選者と落選者に対する脳の反応を調べると、
先ほどの属性に欠けた候補者を排除する
生物的な反応が認められた。


無力な海鳥の羽根に重油が絡みつき、
どうしようもなく溺れ死ぬイメージである。
こうした感情的な文脈では数がほぼ完全に無視されることは、
繰り返し確認されている。


難しい質問に対してすぐには満足な答が出せないとき、
システム1はもとの質問に関連する簡単な質問を見つけて、
それに答える。


システム1は、ある種の思考をきわめてうまくやってのける。
何の苦労もなく自動的に、
複数の事象の因果関係を突き止めることだ。
実際には因果関係が存在しなくても、
原因と結果を仕立て上げるのも得意技である。


翌年も同様の調査をしたら、おそらくは小さい標本のときに
極端なケースが起きるという一般的なパターンが
再び観察されるだろう。


論文の執筆者によれば、
心理学者が選ぶ標本は一般に小さすぎるため、
真の仮説の実証に失敗するリスクは50%に達する


人間は標本サイズに対してしかるべき関心を示さない


訓練されていない人の目には、
ランダム性が規則性に見えたり、
クラスター(群れ)を形成するように見えがちである


「ガンジーは亡くなったとき14歳以上だったか」
と質問されたら、
「ガンジーは亡くなったとき35歳以上だったか」
と訊かれたときよりも、
あなたははるかに高い年齢を答えることになるだろう。


具体例を思い出すたやすさは、
システム1のヒューリスティックとなる。
システム2が関与して、たやすさよりも
思い出した例の内容に注意を集中するようになれば、
このヒューリスティックは排除される。


感情というしっぽは合理的な犬を振り回す


感情ヒューリスティックは、
白黒のはっきりした世界をこしらえ上げて、
私たちの生活を単純化する。
その想像上の世界では、よい技術はリスクを伴わないし、
悪い技術には何のメリットもないのだ。


リスクを定義することは
権力を行使することにほかならない


イスラエルでも、一週間のテロの犠牲者数が
交通事故の死者数に近づいたことさえ、
ほとんどないのである。


ロビンは、予測において基準率が果たす役割を
誰よりもよく知っていたにもかかわらず、
人物描写を目の前に出されたら、
それを忘れてしまった。
彼が訊ねられたのは確率の問題なのに、
予想通りそれを代表性の判断で置き換えたのである。


高価な商品に安物のおまけを付けたところ、
そのせいで、全体が安っぽくなってしまった。
これはまさに、過ぎたるは及ばざるがごとし、
というやつだ


統計的基準率はおおむね過小評価され、ときには完全に無視される。
予測するケースに固有の情報が提供されているときは、
とくにその傾向が強い。


システム1は、因果関係が形成されるシナリオは扱えるが、
統計的な推論にはとんと弱い。


この実験は、助けを求める声を聞いた人が
ほかにもいるとわかっている場合には、
人は自分の責任を感じないことを示している


フランシス・ゴルトンは、数年におよぶ悪戦苦闘の末に、
相関と回帰が別々の概念ではないということに気づいた。
両者は、同じ概念を別の角度から見たにすぎない。


私たちの頭は因果関係を見つけたがる強いバイアスが
かかっており、「ただの統計」はうまく扱えない


参加者は将来予測を要求されたにもかかわらず、
それを手元情報の評価に置き換えた。
しかも、自分たちの答が問われた質問に対する
答でないことに、全然気づいていなかった。


直感に従うほうが、逆らうより自然だし、
ある意味で楽しいものだから。


ある人のたった一つの目立つ特徴についての判断に、
すべての資質に対する評価を一致させるよう
仕向けるのがハロー効果


人間の脳は、平凡な出来事、
目立たない出来事は見落とすようにできている。


実際には、私たちは自分が思うほど過去を理解していない。


実際にことが起きてから、それに合わせて
過去の自分の考えを修正する傾向は、
協力な認知的錯覚を生む。


私たちは、決定自体はよかったのに
実行がまずかった場合でも、
意思決定者を非難しがちである。


たまたま幸運に恵まれたリーダーは、
大きすぎるリスクをとったことに対して罰を受けずに終わる。


偶然が働くケースで出現する規則的なパターンは、
蜃気楼のようなものである。


自分はその分野に精通していると考えると、
スキルの錯覚が助長され、非現実的な自信過剰に陥る


頭の中で何が起きているのか自分では
直接にはほとんどわからないのだから、
周囲の環境がほんのわずか異なるだけで
自分の判断や決定がどれほどちがったものになったのかは、
永久に知ることはできない。


予測精度を最大限に高めるには、
最終決定を計算式にまかせるほうがよい


最近の研究はさらに衝撃的で、
すべての予測因子に均等の重みをつけた計算式のほうが、
標本抽出の偶然性に左右されないので、
重回帰式を上回ることが多いという


人間に関わる決定を下すアルゴリズムに嫌悪感を抱くのは、
多くの人が人工物や合成物よりも自然のものを好むからでもある


アルゴリズムのミスが原因で子供が死んだら、
ヒューマンエラーのせいで死ぬよりも一層耐え難い。
この感情的な痛手のちがいが、
人間による判断を好むことにつながっている。


・十分に予見可能な規則性を備えた環境であること
・長期間にわたる訓練を通じてそうした規則性を学ぶ機会があること。
この二つの条件をどちらも満たせるなら、
直感はスキルとして習得できる可能性が高い。


予測不能な世界に関して正確に予測できなかったからといって、
誰かを責めるのはまちがっている。
だが、専門家自信が不可能なタスクをこなせると
信じ込んでいたら、それを非難するのは正当だろう。


「くそおもしろくない」統計情報は、
個人的な印象と一致しない限り、
簡単にゴミ箱行きになりやすい


自分がしたいことやできることばかり見て、
他人の意図や能力を無視しがちである。


自分の知っていることを強調し、知らないことを無視する。
その結果、自分の意見に自信過剰になりやすい。


自分の無知を素直に認める専門家は、
おそらく自信たっぷりな専門家にとってかわられるだろう。
なぜなら後者のほうが、顧客の信頼を勝ちとれるからである。


問題なのは、判断の裏付けとなる情報の質や量がどうであれ、
自分でこしらえ上げたストーリーが首尾一貫していさえすれば、
主観的な自信が形成されることである。


いまが一年後だと想像してください。
私たちは、さきほど決めた計画を実行しました。
すると大失敗に終わりました。
どんなふうに失敗したのか、5〜10分で
その経過を簡単にまとめてください。


彼女はもらう側だから、リスクを回避する。
一方、夫の側はどう転んでも悪い目がかりだ。
となれば、あえてリスクをとることになる。


ラビンは、数学的に見れば、
賭け金の小さい有利なギャンブルを拒否する人は、
より賭け金の大きいギャンブルでばかばかしいほど
リスク回避的になることを証明した


第一に、選考は一定不変ではない。
参照点が変われば選考は変わる。
第二に、変化に伴うデメリットはメリットより強く感じられ、
現状維持を好むバイアスを誘発する


これ以上なら売ってもよいという値段と
これ以下なら買ってもよいという値段は同一のはずだ。
ところが実際には、教授が売ってもいいと思う最低価格は
100ドルであり、買ってもいいと思う最高価格の35ドルを大幅に上回る。
どうやら、もっているだけで価値が高まるらしい。


ワインを持っている場合には、それを手放す苦痛があり、
持っていない場合には、手に入れる喜びがある。
そして損失回避が働くので、両者の価値は同じではない。
よいワインを手放す苦痛は、同等によいワインを手に入れる
喜びを上回るのである。


決定的なちがいは、靴屋が売る靴も、あなたが靴のために使うお金も、
ともに「交換目的」で、つまり他の財と交換するために
保有していたことである。
これに対してワインや入手困難なチケットは「使用目的」で、
つまり消費したり楽しんだりするために保有されていた。


使いたい品物を売る場合には、嫌悪感や苦痛に関わる領域が活性化する。
しかし買う場合にこの領域が活性化するのは、
値段がひどく高いと感じられたとき、
すなわち売り手が交換価値を
上回るお金をとろうと企んでいるのではないか、
と感じられたときだけである。


貧しい人にとって、選択はすべて損失と損失の間で行われるからだ。
あるモノにお金を使えば、そのお金で買えたかもしれない
別のモノは失われる。
貧しい人にとって、費用は損失なのである。


サクランボが山盛りになった器に
ゴキブリが一匹いただけで台無しだが、
ゴキブリでいっぱいのバケツにサクランボが一粒混じっても
何の感情も引き起こさない


目標に届かない失敗を避けようとする動機のほうが、
目標を超えたいという願望よりもはるかに強く働く。


熾烈な競争を演じているときに、
バーディ狙いのパットで選手が力を抜くことはあるまい。
しかしボギーは何としても避けたいという願望から、
パーを狙うときには集中力が一段と
高まるものと想像される。


大方の人が抱く公正の原則では、
市場原理につけ込んで他人に損を被らせるのは
許しがたい行為とされる。


AがBに不公正なふるまいをしたとき、
Aへの報復に参加した人々の脳をスキャンする研究が行われた。
このような「利他的な報復」では、驚いたことに、
脳の中の快楽に関わる部分が活性化するという。
どうやら社会の秩序や公正の原則を維持すること自体が、
人間にとって心地よさという見返りをもたらすらしい。


その一方で、人間の脳は他人への寛大なふるまいが
快楽をもたらすようには設計されていない。


利得を得られなかったことよりも
損失を被ったことのほうに強く苦痛を感じるのだから、
後者は法律でより手厚く保護されてしかるべきだ、
という論拠である。


ゼロ近くの低い確率では可能性の効果がみられ、
あまり起きそうにもない結果に過大な重みがつけられている。
たとえば2%の確率につけられた重みは8.1である。
合理的選択の公理に従うなら重みは2のはずだから、
4倍以上である。
逆に100近くの高い確率では、確実性の効果が現れている。
こちらは可能性の効果以上に顕著で、
確率が98%と、100%から2%下がっただけで、
重みは100から87.1へと13%も急減する。


利得がかかっているときにリスク回避的になることの裏返しで、
損失しか選べない状況ではリスク追求的になることがすぐにわかった。


確実な損は非常にいやなもので、
確実な900ドルの損失に対する感応度は、
1000ドルの損失に対する感応度の90%よりはるかに強い。


長期的視点から検討したら、
確率の低い巨額損失を避けるために余計な金を払うのは、
結局はコスト高につくことがわかるだろう


テロは、利用可能性の連鎖を引き起こすのである。
痛ましくも鮮明な死者や負傷者のイメージが
報道や日々の会話によって絶えず増幅され、
ひどく身近な取り出しやすい情報となる。


私たちには、奇妙なこと、通常と違うこと、
異常なことに注意を向けるという有用な能力が備わっている。


被験者となった学生の30〜40%が、確率の高い壷Aよりも、
赤のおはじきがたくさん入っている壷Bを選んだ。


腕利きの弁護士がDNA鑑定に嫌疑を提出したい場合には、
「誤鑑定の確率は0.1%である」などとは言わない。
「死刑判決1000件に1件の割合で誤鑑定が起きている」
と言うだろう。


記述に基づく選択では可能性の効果が働く。
すなわち、めったにない結果に対して、
確率に見合わない過大な重みがつけられる。
対照的に経験に基づく選択では、
過大な重みづけは皆無であり、むしろ過小になりやすい。


論理的一貫性という理想は、
私たちの限られた思考力ではとうてい実現できない。


自分の投資の成り行きをチェックする回数を減らせば、
時間の無駄も苦痛も減らすことができる。


個人投資家の場合、四半期に一度見直せば十分だろう。
おだやかな気持ちですごせるというだけではなく、
短期的な結果を意図的に遮断することで、
投資判断もその結果も質的に向上するにちがいない。


サンクコストが存在する場合、
プロジェクトの責任者のインセンティブは
会社や株主の利害とは一致しない。


こうした利益の不一致をよく承知している取締役会が、
以前の決定にこだわって損切りをいやがる
CEOを更迭することはめずらしくない。


行動して生み出された結果に対しては、
行動せずい同じ結果になった場合よりも、
強い感情反応が生まれる。


後悔するリスクが非対称であるため、
人は保守的なリスク回避的選択をしがちである。


いちばん効果的なのは、
予想される後悔をあらかじめ書き出しておくことだ。
そうすれば、悪い結果になったとき、
自分は決定する前にちゃんとその可能性を
考えておいたのだと思い出し、
あまり後悔に苛まれずにすむはずだ。


人間は実際に感じる以上に深い後悔を予測しがちだ


比較対象を行う並列評価では必然的にシステム2が働くので、
単独評価よりぶれない判断が期待できる。
単独評価の場合には、システム1の感情反応が強く反応されるため、
一貫性を欠きやすい。


当たるまい。損失という言葉は、費用という言葉より、
ずっと強い嫌悪感をかき立てる。


「もらう」フレームでは確実な結果を、
「失う」フレームではギャンブルを選ぶ傾向を示した。


生存率90%はすばらしいことだが、
死亡率10%はおぞましいことだ、と判断する。


意思決定者は、選択の結果がどちらも好ましい場合には、
ギャンブルより確実性を好む傾向がある。
つまり、リスク回避的になる。
しかし、どう転んでも結果が悪いときには、
ギャンブルを容認する。
つまりリスク追求的になる。


経験と記憶を混同するのは、協力な認知的錯覚である。


もう一度経験したいかどうかは、
最後に行う総合評価だけで決まることがわかった。
日記に記された日々の評価と総合評価が全然一致しなくても、である。
冷水実験と同じく、人々は経験を再現するかしないかを決めるとき、
正しいか正しくないかはともかく記憶に従って選ぶのである。


高学歴であれば生活評価は高めに出やすいが、
だからといって幸福感が強まるわけではない。
それどころか、少なくともアメリカでは、
学歴の高い人ほどストレスを感じるという結果が出ている。


あなたがあることを考えているとき、
人生においてそのこと以上に重要なことは存在しない。


半身不随の人が生活の中で経験する幸福感は、
ほとんどの時間において大方の人に近いと言える。
良かれ悪しかれ新しい状況に順応するということは、
その状況についてだんだん考えなくなることである。
この意味で、麻痺や結婚など長期的に持続する生活環境の多くは、
それに遭遇したときにだけ一時的に実感する状態であると言える。






engineer_takafumi at 02:16│Comments(0) ★一般書の書評 | ⇒ 勉強・教育・心理

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