2020年05月24日

恐怖の構造

本日は平山 夢明 氏の
恐怖の構造
です。


本書は怪談実話やホラー小説の執筆、
最近では「ホラーではないけど怖い」
作品を書いている著者が、
「怖い」や「恐怖」とは何か?
ということを説いた一冊です。


「喜び」とか「幸せ」、「笑い」
というものはよく語られますが、
「恐怖」について深く考えることは
少ないようです。

単純に「怖い」からかもしれませんが。


そこで本書では
「恐怖とは何か」について徹底的に考えます。

ホラーが好きな人とそうでない人の違い、
なぜ、人形やピエロが怖いのか?
恐怖の性差とは?
恐怖より不安が怖い、
など怖さの本質に迫るトピックがいっぱいです。

ホラー映画や小説を見る目を
変えてくれる本といえるでしょう。


個人的には、
笑いと恐怖が紙一重だ
という話が印象的でした。

子供のころ、お笑いの番組に恐怖を
感じたことを思い出しました。

恐怖にはこんな構造があるのですね。


メディアを問わず、ストーリーを作る人には
お勧めの一冊です。
恐怖の構造を知ることにより、
物語に深みを持たせることができるでしょう。




「怖いものを見ちゃった、嫌な思いをしたな」
と思う人と
「怖いものを見ちゃった、救われたな」
と感じる人の差は、
いったいどこにあるのでしょうか。
僕は、両者の違いは
「人生がどれほど絶望的か」
なのではないかと解釈しています。


恐怖を恐れる人は潜在的に
自分の人生を肯定しているんですね。
ところが怖い目に遭ってしまうと、
安泰だと思っていた日常にヒビが入ってしまう。
絶望を直視しなくてはいけなくなってしまう。
ホラー嫌いの人は、それを潜在的に
不安視しているのかもしれません。


人間は<人間の形をした人間ではないモノ>
を恐れる反面、
<人の形をしていない怪物>は、
そこまで怖がらないようです。


僕にとっての怖さの判断基準は
「嫌なのにどうしてもみてしまうかどうか」
なんです。
目を背けたいのにチラチラと視線を注いでしまうのは、
それが気になってしまう、つまりは
恐怖を抱いているからだと考えているんです。


主人公が
「自分の娘はもういいや、他人の子を誘拐して新しい娘にしよう」
と考えれば、
それはホラーになってしまいます。


火力は登場人物の行動や舞台を
ヒートアップさせる行為なんです。
その炎が多きすぎると、ホラーを突き抜けて
お笑いになってしまうんですよ。


「タバコ吸うからマッチを持ってきて」
と言われた主人公が松明を持ってきたら、
恐怖よりも笑いが先に起こりますよね。
でも、そこにはわずかな差しかありません。
笑わせようか怖がらせようかという判断は、
ドアノブを右手で回すか左手で回すか
くらいの違いなんです。


バナナの皮で滑って転ぶという笑いは、
転倒した人が頭から血を流しはじめた瞬間から
恐怖に変わるように、恐怖と笑いは
薄皮一枚の差なんですね。


女性というのは生命の象徴です。
女性だけが子供を産むことができる
唯一の存在です。
いわば生命の種の運び屋なんですね。
その女性を守るということは、
全人類を守ることの暗喩でもあるんです。


男性は、狩猟文化が主流であったはるか昔から、
集団を前提とした社会を形成しています。
(中略)
細かいことを気にしないで
開き直っちゃう部分がある。
ロマンチストといえば聞こえはいいですが、
要するに雑なんですね。


被害者が何十か所も刺されている場合には、
立場や年齢が下位のグループを対象に
加害者を捜すのだそうです。


被害者よりも立場が上にある人間は
一発でとどめを刺すからです。
まんがいち起きあがってきたとしても
「また殺せばいい」と考える。
それは自分が絶対的に優位だと信じ、
相手に不安を抱いていないからです。


下位グループは
「反撃されたらどうしよう」
という不安が常にあるため、
致命傷以外の傷がたくさん残ってしまうんだとか。


拷問の説明をひたすら語らせることで、
読者にその場面を想像させるように仕掛けたんです。
人間は、「見えているもの」より「見えないもの」、
すなわち恐怖よりも不安に畏怖の念を抱くんですね。


人というのは
「不安の許容範囲が大きいかどうか」を、
潜在的に交際の判断基準にしている場合が
すくなくないようです。


若い世代は「未知」と「無知」に対して
備えておきたいんです。知っておきたいんです。


長く生きていると、あの手の
「理解できないけど従うべき人間」に、
誰しも一度か二度は会ったことがあると思います。


一般的に、ホラーでは
「主人公が生き残るのか、それとも死んでしまうのか」
が最終的なゴールになります。
かたやサスペンスは
「自分を窮地に陥らせるもの」の正体を解明しつつ、
自分の望む日常へ戻ることがゴールになっています。


「各論ではハッピーエンドでも総論はバッドエンド」
になるのは、ホラーにおけるひとつの定型、
ストーリーとして自然な形のようです。


ホラー映画は「生き残るか否か」を描いていますが、
その問いを突き詰めれば、
人間が「死」から逃れることはできない
という結論に達するわけですからね。
死のメタファーであるホラーに
明確な解決は相応しくないのでしょう。


殺人鬼から逃げるグループで
主人公だけが生き残った場合、
もしくは逆に我が身を犠牲にして
グループを救った場合などに、
観客はカタルシスをおぼえます。
完全なハッピーエンドではなくても、
高揚感を持てる救いがあるかどうか。
それが大切なのです。


僕たちが、カタルシスのない
「各論までバッドエンド」の小説を
いまいち消化不良に感じてしまうのは、
そのあたりに理由があるのです。
すべてに救いがない話は、
読者に毒を飲ませるようなものですからね。


「ホラーなんだから、最初から最後まで怖がらせればいいんだ」
と思っている人はけっこう多いようですが、
実は逆。
いかに緩ませるかが重要になります。
これを「緊張と緩和」と呼びます。


僕たち作家は、この緊張と緩和を
意識的にコントロールしています。
京極夏彦さんなどが良い例ですが、
上質のホラーを書ける人というのは
上質のお笑いも書けるんですね。


キャラクターを動かすのが苦手な書き手は、
どうやら最初から性格や設定を
ぎゅうぎゅうに詰めこもうとするようです。
そこに大きな間違いがあります。
肝心なのは、
「どう成長させるか、心理の推移をどのように変化させるか」
なんです。


主人公の抱えた問題よりも
サブが直面している問題のほうが強くなってしまうと、
ストーリーが破綻してしまうんですね。
主役が最も大きなアーチを描き、
サブはそれに準じた形にする。
その代わり、主役ができないことは
サブが経験していくんです。


映画の場合は視覚芸術ですから
「見たことがないもの」
に観客は刺激を受けるんですね。
ところが小説は、見たことも聞いたことも
ないものでは組み立てられないんです。


「バアさんの汚い顔」は、
読者ひとりひとりの脳内にありますから、
その記憶を喚起させてあげる。
それが「描写する」ということなんです。


小説では映画のように音楽や照明は使えませんが、
逆に味覚や触覚、嗅覚は活用できます。
また、目眩がするか耳鳴りがするなどといって
自意識に関わる描写も小説特有の表現方法です
これらを駆使すると、物語に奥行きが生まれるんですよ。






engineer_takafumi at 02:12│Comments(0) ★一般書の書評 | ⇒ クリエイティブ

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