2014年09月23日
直観を磨くもの
本日は
直観を磨くもの
です。


本書に収録されている湯川秀樹博士と小林氏の対談が素晴らしい
と聞いて、興味を持って購入しました。
私は物理にはある程度詳しいですが、
哲学には詳しくありません。
しかし、哲学と科学は中世以前は同じものでした。
それが現代物理になって、再び哲学と融合していくところを
本書を通して、見れたような気がしました。
統計力学や量子力学という学問は、
ものの見方という本質的な問題を問いかけます。
ノーベル賞の物理学者である湯川博士はもちろん、
著者の素朴ですが鋭い視点に驚かされました。
ただ、湯川博士以外はほとんど理解できなかった、
というのが正直なところです。
というのも、私に文学や芸術の素養がないからですね…。
昔の知識人はこれだけ教養豊かであったのだと
認識させられる一冊でした。
私も教養を深めるため、つまり直観を磨くため
文学や芸術も学ばなければいけない、と感じました。
科学哲学に興味のある方にはお勧めの一冊です。
湯川博士との対談で科学を通じて哲学が学べます。
直観を磨くもの
です。

本書に収録されている湯川秀樹博士と小林氏の対談が素晴らしい
と聞いて、興味を持って購入しました。
私は物理にはある程度詳しいですが、
哲学には詳しくありません。
しかし、哲学と科学は中世以前は同じものでした。
それが現代物理になって、再び哲学と融合していくところを
本書を通して、見れたような気がしました。
統計力学や量子力学という学問は、
ものの見方という本質的な問題を問いかけます。
ノーベル賞の物理学者である湯川博士はもちろん、
著者の素朴ですが鋭い視点に驚かされました。
ただ、湯川博士以外はほとんど理解できなかった、
というのが正直なところです。
というのも、私に文学や芸術の素養がないからですね…。
昔の知識人はこれだけ教養豊かであったのだと
認識させられる一冊でした。
私も教養を深めるため、つまり直観を磨くため
文学や芸術も学ばなければいけない、と感じました。
科学哲学に興味のある方にはお勧めの一冊です。
湯川博士との対談で科学を通じて哲学が学べます。
近代人の弱さというのは、新聞を読むね。
新聞に出ていることで自分に関することはたいてい嘘が書いてある。
それだのに、ひとの事が出ていると誰でもそれを信ずる。
そういうところに近代人の欠陥がある。
ものにぶつかって極めるということが少ないわけなんだね。
科学だって一種の芸術ですし、芸術家はまた一種の職人ですからね。
自分の人生観なり、形而上学的観念から演繹する事が仕事ではない。
具体的な仕事の方から逆には職人は
いつだって忠実ならざるを得ないから、そういうことになる。
出発点をどこに選ぶか、出発点が間違っておったら、
演繹はいくら正しくても、結果は駄目です。その出発点を探す。
ところが、われわれにわかっているのは末端だけで、
出発点はまだわからない。わからないことを探求している。
だからこの出発点を嗅ぎつけるのは結局直観しかない。
二十代には経験というか、知識というか、そういうものが豊富でない。
自分がもっているものは割合貧弱なんですけれども、
貧弱なかわりに強く入っている。
そういうものだけで、とにかく無我夢中でやる。
かりにそれが他のことと抵触しようが、
自分の知らぬことと抵触するかどうかを考えずにやる。
そうすると案外今まで人がやっていないところまで行く。
人間は自分の発明した技術に対して復讐されない自信があるかどうか。
それほど強いでしょうか、人間という奴は…。
考え方の相違とか、立場のちがいとかいうことがあっても、
平和はすべてに優先する問題なんです。
今までとはその点で質的な違いがあると考えなければいけない。
法則ということになれば一種の信仰に近いものになります。
法則があるとしても、その法則は有限のものでは実証されない。
しかもここに有限のものしか与えられないとすれば、
それ以上は法則を信ずるほかないわけです。
科学というものは事実を通じて法則を信ずるのですが、
更にそれを通じて何か別のものを信ずるかどうかはまた別の問題です。
時間に向きがあると考えざるを得ない人間的状態が与えられている。
一方、方程式の変数としての時間を考えざるを得ない
もう一つの人間的状態も同時に与えられている。
両者を統一する合理的立場は、人間の側からは原理的に出て来ない。
出て来るとすれば、本当の実在の側から、神の側から出て来るだろう。
プロパビリティーというものをただわれわれの無知のシンボルだと
解釈するのは、ほんとうは実情と合っていないわけですね。
エントロピーの法則などということで効率が制限されているということは、
ある一つのものを熱機関として取り扱うからですよ。
しかしそれをもっと細かく、もっと分析していけばまた話は変わってくる。
たとえばその中の分子の一つ一つを取ってもエントロピーは何もない
普通の意味では…。
科学の方法というものも、ある意味では二十世紀になって、
また人間的なところへ帰ってきたのだろうと思います。
演奏会っていうものは、あれは一種の劇場ですからね。
観客がいる。雰囲気がある。演奏家が見える。拍手がある。
いろんなことがある。そんなものみんなに心理的に影響されている。
あそこで聴こえてくる音は、いい蓄音機で聴く音よりは、
もっと悪いかも知れないです。だけど、よく聴こえるんです。
ハイドンを聴こうと思うからハイドンなんで、
雑音がとれたらハイドンになると思って、
雑音をとってもハイドンにはならないですよ。






