2015年09月13日

編集とはどのような仕事なのか

本日は鷲尾 賢也氏の
編集とはどのような仕事なのか
です。


本書は知人の編集者のSNSで紹介されており、
興味を持って購入しました。

本書の著者は講談社に入社し、「現代新書」の編集長などを経て、
「選書メチエ」を創刊、「現代思想の冒険者たち」や「日本の歴史」など
記念碑的な企画を世に送った名物編集者による本です。


本書は企画から、著者への依頼方法、原稿チェックの方法、
装丁、販売・流通・宣伝、著者との関係の築き方など
著者の編集者としての仕事の全体を描いたものです。

一流の方なので、仕事に向かう姿勢や思想の面で
大変参考になる一冊です。
特に企画に対する考え方や著者との関係の気づき方には
学ぶべきところが多かったです。

また、著者とのエピソードにも興味深いものが多く、
著者という人は、やはりちょっと変わった人だなと
思わせられました。


正直、昔話という印象も受ける部分もあります。
しかし、出版という歴史が長く、文化の根源を構成する領域の中で、
何を守り、何を変えていくべきなのかを考えるために、
歴史を知るのも非常に重要なことでしょう。


編集者を志す学生の方にはぜひ一読して欲しい一冊です。
編集という仕事の心構えが学べるでしょう。




編集という仕事は、お願いをしたり、また謝ったりすることが多い。


専門化とオタク化は表面的には相似している。
しかしベクトルは正反対を向いている。
オタクには社会が存在していない。
たしかに、あることがらについての考察はくわしいかもしれない。
しかし、それが全体のなかでどのように位置づけられるのか、
意味を持つのか、あるいは隣接領域といかに関係するのか
という発想は持たない。


いまの時代の若者にとっては、入社試験も偏差値が基準になっている。
偏差値の上位に出版社が入ってしまっているので、
彼らは当然のように受験するということになる。
英語は話せる、受け答えは如才ない、勉強はできる、感じもわるくない、
しかもブランド大学出身である。世間的になんの不足もない。
かなりの比率で彼らは難関をパスしてしまう。
ややオーバーにいっているが、大筋はこのような経過をたどってきた。
するとどういうことがおこるだろう。
「何がやりたい」ではなくて、「いわれればやります」という
タイプが増殖することになる。指示待ち世代である。


好奇心は養成できるものではない。しかし、無理を承知で編集者は
好奇心を奮い起こさなければならないと思う。


私は企画をこの三角形でいつも判断している。
ひとつは価値(インパクト)、もうひとつは売れ行き(採算)
さらにもうひとつは実現性である。


企画の発想力と問題を解く能力とは異なるものである。
企画の発想には、むしろ問題を作る能力の方が試される。


社会や人間や時代が漠然といだいていて、
いまだかたちになっていない関心、欲求を問題化する。
それが企画なのだ。


企画は流れる川のようなもので、動かしていないと死んでしまう。
ひとつだけに固執していはいけない。


本には汎用性がない。そもそも限定されているものなのだ。
だれでも読めるというのは、だれも読まないのと同じことである。


企画は本来個性的なものであるべきだし、数によって決定したり、
平均的、最大公約数的に決定されるべきものではないと思う。
時に社長、編集代表によって専決されることも、
こと企画に関しては必要である。


岩波書店では入社五年目ぐらいまでは、
すべての手紙が先輩によってチェックされていたということを
聞いたことがある。


読者は本に対して、どこか構えている。
それをほぐしてやらなければならない。
すうっと、自然に読みはじめてしまったというような導入が、
いちばんよいのである。


「親が死んでも締め切り」なのである。
ものを書くというのはそのくらいきびしいものだ。


執筆の追い込みになればなるほど、
奥様がこっちの味方であるか否かでは天地ほど違う。


柳の下にドジョウは三匹以上いるというのが、
この世界の常である。


経験でいえば、初速のよくないものはその後もあまり動かない。


書店だけでなく読者の読む力が弱くなっている。
「良書でござい」とあぐらをかいていてすむ時代ではない。


新書・選書に象徴される中間的文化好奇心は、
どこの国にも負けない強さのあらわれでもある。
いきすぎや、ムダはあるかもしれない。
しかし、活字に対する人々の貪欲さが、日本の近代、戦後、
そして現代までの活力のもとになってきたことはいうまでもない。








engineer_takafumi at 19:36│Comments(0) ★一般書の書評 | ⇒ クリエイティブ

コメントする

名前
 
  絵文字