2016年10月20日

教養としての日本哲学

本日は小川 仁志氏の
教養としての日本哲学
です。


本書は一度、日本の思想を体系的に勉強したいと思い購入しました。


例えばスティーブジョブズが禅の愛好家だったという話があるように、
世界のエリートには日本文化の愛好家が意外にたくさんいます。

そんな外国人と知り合いになった時、逆に外国人の方が
日本文化に詳しければ、日本人としてとても残念です。

私のように、そんな危機感を持つ人のために、
日本哲学を体系的にまとめてくれたのが、この一冊です。

本書では日本哲学の歴史、名著、人物、用語のほか
日本思想の特徴についても述べられています。

日本思想だけでなく、西洋思想と比べて何が違うのかが
わかりやすくまとめられていて、大変参考になりました。


個人的には、水に清めるという思考は、
逆にそれだけ簡単に罪を流せるということだ、
という部分が印象に残りました。


これから海外に行くという方におすすめの一冊です。
外に出ると、逆に自国の知識が求められます。
そのための最低限の知識を得られるでしょう。





自分たちの国で培われてきた知の営みが、
世界のエリートたちにとって重要な教養となっていることに
まったく気づいていない


海外から入ってきた仏教が事実上国教化される中、
それでも神道が生き延びてきたのは、
やはり他の宗教に対して神道が寛容だったからでしょう。


西洋哲学では当たり前の主観主義や個体主義を否定してみせるところに、
西洋のエリートたちを惹きつける要素があるのでしょう。


山本常朝の『葉隠』は、太平の世にあえて本来の武士道を
貫き通そうとした思想だといえます。


新渡戸の武士道が異質なのは、それがキリスト教徒の手によって、
キリスト教のために書かれたという点です。


江戸時代には隆盛を極めた儒学ですが、
明治に入ると天皇制国家確立のために利用され、
残念ながら国民教化の道具と化してしまいました。


幕末の思想は、基本的に尊皇攘夷を共通の目的にしてきたわけですが、
それがもたらした結果にはもっと大きい意義があります。


日本では自然であることが、そこに何か人為的に
手を加えるよりも正しいとされるわけです。


今なお日本人が「する」ことよりも「である」、
あるいは自然に「なる」ことをよしとして生きているからにほかなりません。


日本には革命がないといわれますが、
それもこうした「なる」という思想の影響だといえそうです。


結ぶという発想も日本の思想の特徴を
示したものだと考えています。


西洋哲学には「無から有は生じない」という原理がありますが、
日本思想の場合それは十分可能なのです。


水で清めなければならないという発想は、逆にいうと、
それだけ簡単に罪は消すことができるということです。


日本社会には多くの外来思想が入ってきました。
その都度在来の思想は、そうした外来思想をうまく取り込んで、
ハイブリッドな思想を生み出していったのです。


信じるというのは、当てにするのとは違うということです。
当てにするというのは、心を預けきっていないので、
相手が思い通りにやってくれないと、裏切られたと感じてしまうわけです。
でも、信じるというのは、そこも含めて了解するという意味です。


一心不乱になるというのは、迷わず正しい道を貫き通す
という思考法にほかなりません。


西洋思想では、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」以来、
どうしても考えることを優位に置きがちですが、
本当は「感じる」ことがまず来るはずです。
感じることによって、はじめて考えることができますし、
また逆に考えの過ちを正すのも感じるという営みなのです。


親鸞のいう絶対他力は、救いのすべてが
まったく阿弥陀仏の力とはからいによるものであるとする考え方です。


人間はついつい何でもできると思いあがりがちです。
しかし、それは不可能なのです。
自らの限界を知り、時にはだれかに任せてみることも大事だといえます。


創造的な仕事の背景に、非現実へと移動する「うつろう」という思考法が
横たわっているように思えてなりません。
私もフィクションを書いているのでわかりますが、物語世界というのは、
現実を見てそこから非現実へと心を移動させることなしには
生み出しえません。


日本の小さなものは、ただ小さいだけでなく、
手が込んでいるところがポイントです。


時間に追われ、効率を考えてあくせくやるようでは、
いいアイデアもいい作品も生み出せません。
あたかも無限にあるかのような時間の流れの中で、
ゆったりと思考する。そんな贅沢な雰囲気が必要なのです。


日本ではあらゆる事柄において簡素化することがよいことであると
認識されているようにおもわれます。
ユニクロや無印良品が世界でも受けているのは、
そうした日本的なコンセプトが評価されている証拠ではないでしょうか。


風流なこだわりを数奇といいますが、数奇と好きは同語源だといいます。


日本人はやくざ映画が好きですが、
それは決して暴力が好きだからではありません。
そうでなくて、やむにやまれず敵を討つ、そして自らを犠牲にする
というその筋を通す部分にしびれるからです。


価値観が多様化してくると、判断に迷うことが増えます。
そんなとき、あえて筋を通すという道を選択するのです。
何らかの犠牲を払うことになるかもしれませんが、
きっと西洋人にはできないようなすごい選択が可能になるはずです。


筋を通す思考では、そんなものはどうでもいいのです。
むしろ大事なのは人間の心なのです。
だから日本人は尊敬されるのです。


『古事記』は、天皇による地上支配の正統性を確立するために、
世界の始まりにまでさかのぼる物語を記したものだ
ということがわかります。


この二つの歴史書(古事記と日本書紀)は、
同時期に書かれたにもかかわらず、
内容面では対照的な部分があるのです。


『日本書紀』のほうは、当時の東アジアで広く通用していた漢文で書かれ、
「日本」という表現が用いられていることから明らかなように、
対外的に「日本」と天皇の支配を示すための
歴史書であったと考えられます。


『葉隠』は、武士に去勢を迫る時代への抵抗として、
戦国時代の武士道を理想化していったのです。


この本(古事記伝)の趣旨は、一言で言うと、
『日本書紀』に対する『古事記』の優位性を示すことで、
当時強い影響のあった中国に対する
日本の独自性を主張する点にありました。


新渡戸の武士道が異質なのは、それがキリスト教徒の手によって、
キリスト教のために書かれたという点です。
新渡戸自身がキリスト教徒であり、彼は日本の精神としての武士道を、
西洋の人たちに向けて英語で書きました。
その目的は日本の道徳がキリスト教と親和的であることを
説明するという点にあったのです。


新渡戸の武士道は、日本において特殊であるがゆえに、
世界的に見れば普遍性を備えた思想たり得たのです。


面白いのは、成人にとっての甘えは、
むしろ健康な精神生活に不可欠なものであると評価している点です。
というのも、他人に甘えるということは、他人を受け入れる
開放的な世界を構築することにほかならないからです。
にもかかわらず、甘えを排除してしまうとどうなるか。
土居はそこに大きな混乱やストレスをもたらすことになると
警鐘を鳴らします。


土居は、誰もからもが子供のように甘えるようになった
現代社会の現象を、一種の退行現象に見立て、
しかしそれは新しい文化を創造するために必要な
ステップであるのかもしれないと締めくくっています。


「もののあはれ」とは、『源氏物語』に見られるような、
あるものに直面した際生じる人間の純粋な感情をいいます。
「あはれ」というのは「ああ」「はれ」という感嘆の声を重ねた言葉です。
人間が本来もつ情感に逆らうことなく、素直に従うことによってはじめて、
人間らしい生きかたができるというわけです。


矛盾したものが同時に存在しうる概念上の共通の土台こそが、
絶対無にほかなりません。












engineer_takafumi at 17:18│Comments(0) ★一般書の書評 | ⇒ 勉強・教育・心理

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