2016年11月07日

広告をナメたらアカンよ。

本日は山本高史氏の
広告をナメたらアカンよ。
です。


本書は好きな著者である、山本高史さんの著書なので
興味を持って購入しました。


著者の山本氏はクリエィティブディレクター、コピーライター
として活躍しながら、関西大学で社会学の教鞭もとっておられます。

広告の作り方でも教えているのかな、と漠然と思っていましたが、
この本を読むとよく分かりました。
広告は世の中を写すので、社会の研究にはうってつけの題材なのです。

普通のアート作品や映画などには作り手の個性が現れます。
しかし、広告は受け手にしてみれば、元々不要なコミュニケーションなので、
どこまでも受け手(その時の社会)に寄り添って作られるのです。
ですから、広告を分析すれば、その時の社会情勢がわかるということです。

本書では、そんな視点で、大ヒットした広告から、
その当時の世相がどうであったか鋭く分析してくれます。
 
このような頭の使い方をしていれば、
時代がどのような方向に進もうとしているのか、
おぼろげながらも、つかめるようになるのかもしれません。


マーケティングなどの仕事をしていて、
「世の中の流れをつかみたい」と思う人にお薦めの一冊です。
広告とは、時代を映す鏡なのだと気づかされるでしょう。



広告は事情の塊である。ブラックボックスと言ってもいい。
制作者は告知されず、制作意図も公表されない。
受け手である生活者に提示されるのは
「明るく楽しく美しく」のみだが、薄皮一枚はがすと
企業や芸能界やメディアや業界の事情がこれでもかと
塊になって姿を現す。


広告は、そもそも必要とされていないコミュニケーションだ。


「その人/その場/その時」
という状況に最適化されるべきものなので、
受け手の状況が変わってしまえば、その広告は
すでに本来の機能を発揮できなくなっているのだ。


広告は世の中の合意である。


「ヒゲはいらない」の合理性は誰も否定しにくい。
まあ一生のこととなると去勢にも思えて、旧男子は萎える。
そこで躊躇しないのが、「草食系」の史上かつてない強さである。


これだけ言葉が使い尽くされているような広告の世界で、
いわゆる「高齢者」のことを何と呼ぶか、言葉に困っている。


ニート、引きこもり、フリーター、草食系、少子化は、
社会にコミットメントするモチベーションの低さの産物である、
ということらしい。
残念ながら説得されてしまいそうだ。


広告が正確に伝えたいと願えば願うほど、
受け手が受けられるボールを投げるしかない。


商品のどんなに素晴らしい事実も崇高な精神も、受け手(消費者)
にベネフィットと認められなければ、意味がない。
(中略)
「おなかいっぱい」の受け手に「欲しい」と思わせるには、
広告が積極的に仕掛けなければならない。


かつてクルマの広告のボディコピーで、
スペックをこれでもかといくらい並べられていた時には、
その「走る、曲がる、止まる」のどれにも幸せな不足があった。


他人の老後のために生まれたとしたら、
人生早々にしてやってられないよね。
社会のためにがんばろうなんて、なかなか思えないよね。


「おいしいものは、脂肪と糖でできている。」の真のダイナミズムは、
実はこの「欲望の肯定」にあると思う。
「食べたい」という欲望を認めながら、
「ダイエットしたい」という欲望も叶えようとするのだ。
その欲望のあっけらかんとした肯定が、実に心地よい。


若い頃は変わることが常態なのは、よくも悪くも「余地」が十分、
つまり中身が空っぽだからだ。


「記憶」そのものがメッセージである。
「知っている」「経験がある」ことは、
広告が本来的に持つ新規の情報ストレスを軽減する。
受け手(特に年長者)は目新しい情報を受け入れるために、
もともとの経験ストックを整理する必要がない。


他人の言葉でも網膜や鼓膜に届いたとたん、
もう自分のものなのだ。


送り手のメッセージが受け入れられるかどうかは、
受け手との「その場・その時」に関する合意・共有が前提となる。


たばこがそうだ。
変化に寄り添うのが広告的態度だと書いたが、
商品やサービスの変化に困難があるとすると、
広告が、コピーが、能動的にその困難の原因の軽減を示唆し、
価値の同時代化を促そうとすることもあるのだ。


「時代/社会/人間」を受け止めながら、
「答えはある」とコピーで約束しておくからと、
クライアントに覚悟を迫る。







engineer_takafumi at 14:51│Comments(0) ★一般書の書評 | ⇒ クリエイティブ

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