2017年11月10日
コレクションと資本主義
本日は水野 和夫氏、山本 豊津 氏の
コレクションと資本主義
です。


本書は経済学の教授である水野氏と
東京画廊の社長をされている山本氏との対談形式の本です。
美術と経済というと、
最初は関連性が良くわからなかったのですが、
読み進めていくうちに関連性が見えてきます。
アートはただ飾っておくだけのもので、
車や家電のような「利用」価値はありません。
それなのに、何十億円という価値がつくのは
なぜなのでしょうか?
それはズバリ「虚構」だといいます。
でも考えてみれば、一万円札だって、
原価は20円ほどのただの紙です。
モノとしての利用価値は、
新聞紙やティッシュにも劣るでしょう。
なのに、なぜ一万円もの価値をもってしまうか?
それもやはり「虚構」なのです。
そういう意味でアートとお金は
近いモノである、とも言えるのです。
アートを通じて経済を見ることにより、
ものの見方が広がることが、楽しい一冊でした。
個人的には、
秀吉と千利休の茶器の話が
大変興味深かったです。
経済を勉強している人にお勧めの一冊です。
アートを通して経済を眺めることで、
理解を深くすることができるでしょう。
コレクションと資本主義
です。

本書は経済学の教授である水野氏と
東京画廊の社長をされている山本氏との対談形式の本です。
美術と経済というと、
最初は関連性が良くわからなかったのですが、
読み進めていくうちに関連性が見えてきます。
アートはただ飾っておくだけのもので、
車や家電のような「利用」価値はありません。
それなのに、何十億円という価値がつくのは
なぜなのでしょうか?
それはズバリ「虚構」だといいます。
でも考えてみれば、一万円札だって、
原価は20円ほどのただの紙です。
モノとしての利用価値は、
新聞紙やティッシュにも劣るでしょう。
なのに、なぜ一万円もの価値をもってしまうか?
それもやはり「虚構」なのです。
そういう意味でアートとお金は
近いモノである、とも言えるのです。
アートを通じて経済を見ることにより、
ものの見方が広がることが、楽しい一冊でした。
個人的には、
秀吉と千利休の茶器の話が
大変興味深かったです。
経済を勉強している人にお勧めの一冊です。
アートを通して経済を眺めることで、
理解を深くすることができるでしょう。
資本が投資先を失い、お金(貨幣)が過剰になると
金利が低くなるという現象がつねに起こります。
そのたびに大航海や植民地支配などでフロンティアを広げ、
新たな投資先を見出すことで、
資本主義は命脈を保ってきたのです。
「蒐集」は「収集」と発音は一緒ですが、微妙に違います。
「収集」がたんに「集める」という行為を表すのに対し、
「蒐集」は自分たちの価値基準に応じて分類し、
選別しながら蒐めるというニュアンスが強い。
大英博物館が膨大なコレクションを無料で公開しているのは、
決して気前がよいからではありません。
コレクションを公開することで自分たちの力を誇示し、
ヒエラルキーの上位にいることを
世界中の人に知らしめたいという意図と戦略があるのです。
日本には現在の低金利、ゼロ金利を
既存の経済学で明快に説明する経済学者はいません。
主流派経済学の説くところでは、
理論的には金利は再び上昇するはずだといいます。
金利が上がらないのは理論が間違っているのではなく、
現実がおかしいというわけです。
そこには言葉が不可欠であり、
その作品がどんな「コンテクスト(文脈)」を
もっているのかが重要だ
絵画の価値や価格はコンテクストのなかで
いかようにも上がります。
もしかしたら、いま世界中に有り余ったお金を
吸収できるのはアートかもしれない(笑)
しかもアートであれば証券や不動産などと違って、
たとえその価格が暴落しても、
社会的な不安定をもたらすことがありません。
「わび」「さび」というコンテクストによって、
原価は決して高いものではない茶器が、
貴重品として価値を高めていった。
秀吉は茶器を論功業賞に利用すると同時に、
それを積極的に購入させることで
大名たちの経済力をそちらに向かわせたのです。
その人の教養や文化程度が高く、
なおかつ心身ともに美しいということが、
敬意や尊敬を勝ち得る源泉になる。
茶の湯の美意識を通して千利休は全国の武将たちに
そのコンテクストを植えつけたのでしょう。
「蒐集」した結果をミュージアムによって開示することで
自らの優位性を内外に示し、
自分たちの文化的な価値観を一元的に
押し広げていくという暴力性もある。
キリスト教は当初、
商人が利子を取ることを厳しく禁じていました。
キリスト教社会だけでなく、歴史上、
多くの時代と国で利子を取ることが禁じられていた
キリスト教では時間というのは神のものであるとされます。
神が所有する時間に対して人間が利子というかたちで
勝手に値段をつけることは、神に対する冒涜であるというのが、
当時の教会の基本的な考え方でした。
価値というのは、何かを集めることによって生まれます。
たとえばバラバラの情報をテーマに沿って集め、
一冊の本にすることで書籍としての価値が生まれる。
世界はロシアはお金がないから売るだろうと思ったようですが、
ロシアは絵は売らなかった。
対照的なのが中国の文化大革命です。
毛沢東を支えた「四人組」は紅衛兵を遣い、
文化大革命ですべての美術品を壊してしまった。
そして美術品の価値を鑑定できる知識人たちを粛清しました。
だから中国では、いまだに明代より前の美術品が
オークションにあまり出てきません。
きちんとした鑑定人がいなくなってしまったからです。
むしろ日本に残っている美術品は来歴がはっきりしているからこそ、
いま中国人が日本にある中国美術を買いに来る、
という現象が起こっているのです。
なぜ二つの大戦が避けられなかったか?
互いの国家の「蒐集」のシステムがぶつかり合い、
衝突したという見方ができるでしょう。
日本人は新しい表現が出てきたときに
自分の価値基準で判断することが苦手です。
ヨーロッパの人たちには
「よいものを価格が上がらないうちに買う」
という考え方が染み込んでいます。
中国では、お金が絵画などの美術品に回りやすい。
というのも、彼らには日本人のような土地神話がないからです。
アダム・スミスは経済学の祖といわれていますが、
じつは彼は経済学だけではなく、
法律学、倫理学、道徳学を修めていて、
この四つをマスターして初めて
完全な「人間学」になると考えていました。
アート作品が持っている価値転換、
すなわち使用価値の低いものほど
交換価値があがるというパラドックス
情報化が進む時代には、すべてがフェイクとなる
お金は人類が生み出した壮大なフェイク=虚構であり、
芸術もまた壮大なフェイク=虚構です。
溢れたお金はさらなる利益拡大のためにモノの値段を上げたり、
バブルの崩壊によって実体経済にダメージを与えたりします。
この暴れん坊のお金をどう抑えるか?
そのためには同じく虚構である美術が、
大きな役割を演じることができるのではないか?