2018年10月31日

一度読んだら絶対に忘れない世界史の教科書

本日は山 圭一 氏の
一度読んだら絶対に忘れない世界史の教科書
です。



本書はYoutubeで有名になっている
世界史の高校教師が書いた、
今までとは違う世界史の教科書です。

何が違うかというと、2点あります。
一つ目は地域ごとに数珠繋ぎであることです。
今までの教科書は地域や主語があっちこっちに
飛びすぎていて、読み手の理解を妨げていたのです。
二つ目は年号を使っていない、ということです。
年号を使うとノイズになって、
流れが頭に入りにくくなるのです。

半信半疑に思って読み進めてみると、
これが本当にわかりやすいです。
国が興った背景や抱えている問題、周辺国との関係などが
整理されて頭に入ってきます。

特に中東や中世ヨーロッパなど、
ただ単にカタカナを唱えていた勉強方法に比べて
世界史が「わかる」という感覚が強くなりました。

著者のYoutubeも見てみたいと思わせる一冊でした。


高校生、大学生、社会人と
世界史を学ぶ全ての人にお勧めしたい一冊です。
世界史を効率良く、学ぶことができるでしょう。



"誤解"を生む1つの要因が、学校で使われている
一般的な世界史の教科書の構成にある


地域、または王朝、国家などの「主役」の変化を
最小限に留めて話を進めていく


できるだけ"一直線"に読むほうが、結果的に、
地域間、国家間の「横のつながり」がより理解できる


"数珠つなぎ"にするときに、
年号は"ノイズ(雑音)"になってしまう


じつは、年代を簡単に頭に入れられるコツがあるのです。
本書の第2章にあたる「中東」の年代を軸にして
整理すればよいのです。


今から1年前、それまで寒冷であった地球が温暖化したことにより、
地球が現在とほぼ同じ気候になりました。


ギリシアのアテネは「身分が解消されて民主制になった」
のに対し、ローマは
「平等になったことで、平民と貴族がかえって対立を深める」
ことになってしまいました。


「終身独裁官」を名乗って暗殺されたカエサルを
見ていたオクタウィアヌスは、元老院の存在など、
共和制の伝統を守りたいという人々に配慮したのです。


ゲルマン人の多くは異端とされるアリウス派でしたが、
クローヴィスがいち早くローマで正当とされていた
カトリックに改宗したことで、
今までローマ帝国の貴族や市民だった人々も、
「ゲルマン人の支配であっても受け入れてやろうかな」
という気持ちにさせられ、フランク王国が
西ヨーロッパの中心勢力となる基盤を固めていったのです。


イギリスの「ノルマン朝」はフランスの「ノルマンディー公」
だった創始者の「征服王」ウィリアム1世が
イギリスを征服して建てました。
以降、イギリス王は、現在の王に至るまで
全員がもとをたどればウィリアム1世に遡れるという、
イギリス王家の源流になります。


ビザンツとは、ビザンティウム(コンスタンティノープル)を
都にしたために付けられたニックネームです。
西ローマ帝国は、百年も経たずに滅亡しますが、
ビザンツ帝国(東ローマ帝国)のほうは、
百年以上も永らえることになります。


ゲルマン人の信者をすぐにイチから
獲得しなければならない状況に陥り、
なりふりをかまっていられなくなったローマ教会は、
キリスト教では本来「禁じ手」だった
「聖像」を使った布教を行います


せっかく冠を授けたフランク王国は分裂してしまい、
神聖ローマ帝国もいまひとつ国内が不統一でした。
他の国の王権も軟弱だったため、
後ろ盾を求めていたカトリック教会が、結果的に
西ヨーロッパで最高の権威者になっていきました。


キリスト教会、特にカトリック教会の成長は
ヨーロッパに「統一性」をもたらしました。
一方、もう1つの中世ヨーロッパの要素、
「封建社会」の成立はヨーロッパに「多様性」を生み出しました。


十字軍が敗北を続けたため、十字軍の「言いだしっぺ」の
ローマ教皇の説得力がなくなってしまったのです。


ジョンがこのような情けない王だったため、
以後、イギリス王家では「縁起の悪い」ジョンという名前は
避けられているというのが通説です。
そのため、ジョンだけは「ジョン○世」といわず、
「ジョン」だけなのです。


リディアは世界最古の金属貨幣をつくったことで
後世に名を残しました。
ここから、人類の「お金」の歴史が始まります。


7世紀初頭の中東地域は、ササン朝とビザンツ帝国の
抗争の場となっています。
この時代、商人たちは戦場での危険を避け、
大きくアラビア半島をへ迂回して、交易を行っていました。


キリスト教の「God」、ユダヤ教の「ヤハウェ」、
イスラムの「アッラー」は、すべて「同じ神」
ということになります。


もし、異教の神を「異なる神」と認めてしまうと
「一神教」の建前が崩れてしまうからです。


3宗教の違いは、この「神」の言葉を授かった者が
「モーセ」だけなのか、「イエス」や「ムハンマド」を
含めるのか、という点です。


イスラームにおいて、
ムハンマドは人類最大最後の預言者であり、
神の言葉を"完全に"伝えている「真の宗教」
ということになっています。
ユダヤ教は「神に選ばれた民」としてムハンマドを認めず、
キリスト教は神をイエスを同一視する
という違いがあります。


アレクサンドロスが東方遠征によってペルシアを滅ぼし、
インドまで迫ると、分裂状態ではとても太刀打ちできない
とあせったインドは、インド内の国同士で同盟を組んだり、
弱い国を攻めて支配したりと、
少しずつまとまり始めていきます。
こうした動きのなかで、頭角をあらわしたのが
チャンドラグプタという人物です。


バラモン教を源流とするヒンドゥー教の確立です。
ヒンドゥー教は、もともとのバラモン教に、
様々な民間宗教が混ざった宗教です。
(中略)
解釈上は、お釈迦様もヒンドゥーの神の1つなので、
仏教徒も、みなヒンドゥー教徒ということになります。


「一神教で平等」と「多神教で身分あり」という
"正反対"の宗教がイスラーム教とヒンドゥー教なのです。


中国の最重要キーワードは、「皇帝の人間性」です。
広大な領域と膨大な人口を誇る中国では、
ひとりの権力者に権力が集中しやすく、
皇帝の人間性が統治にダイレクトに反映される場合が多いのです。


西周の王朝は封建制という支配体制をとり、
土地を家臣に分け与え、地方の統治を任せました。
ここまでは前述のヨーロッパの封建制と同じですが、
周の場合は血縁を仲立ちにしたことが特徴です。


性急は始皇帝の改革は秦王朝を短命にしましたが、
秦の作った政治体制や社会体制を活用することで、
漢王朝は「長生き王朝」になれたのです。


三国時代は、英雄豪傑が天下を争うという、
現代の私たちにとってはとても興味をひかれる面白い時代です。
しかし、戦争に駆り出される民衆にとっては、
たまったものではありません。
中国全土が戦場になり、後漢末に5500万人以上だった中国の人口は、
戦乱や疫病などによって三国時代には800万人まで減ったという
記録が残っています。


それでも、玄宗ののち、16人もの皇帝が続いたので、
唐の基盤は本当にしっかりしていたのでしょう。


4代目皇帝の康熙帝は、中国皇帝史上最長の61年の在位を誇り、
中国の歴代最高の名君といわれています。
ロシアのピョートル1世から尊敬され、
フランスの「太陽王」ルイ14世からも、
まるでファンレターのような手紙を受け取るほど、
まさに「名君中の名君」だったのです。


中東では、ヨーロッパ諸国の"宿敵"
オスマン帝国が成長していたため、
陸路でのヨーロッパからアジアへの交易ルートが
途絶えてしまっていました。
そこで、「陸がダメなら、海から行こう!」と、
ヨーロッパ諸国が大西洋に乗り出して新しい交易路を
確保しようとしたことから、世界が一体化する
大航海時代が始まるのです。


「ルネサンス」は、ヨーロッパが、キリスト教文化に染まる前の
ギリシア・ローマの文化が復活したという意味なのです。


独裁の王を倒したクロムウェルが独裁者になってしまったことは、
国民にとって大変衝撃的な出来事でした。
「結局、自分が王になりたいだけだったのか!」
「これなら王のほうがまだましだ!」と反発が高まります。


ウェストファリア条約は「帝国の死亡証明書」
といわれるようになったのです。


フランス革命は「王を倒す」段階から「王がいない」段階を経て、
「みんなで独裁者を選んでその支配を受ける」
という段階に突入します。


ウィーン体制が成立して王様たちの世の中に戻りましたが、
すぐに自由主義運動の反乱がはじまったことで、
王の支配に不満をもった民衆や他国に支配されている国々は
「我々も反乱を起こせば王政打倒や独立のチャンスがあるかもしれない!」
と、考えるようになります。


プロイセンがドイツ帝国になると、
フランス国民の不満はドイツに向けられるようになり、
のちの第一次世界大戦が勃発する原因となるのです。


プロイセン=フランス戦争で、
フランスのナポレオン3世を捕虜にするという
大勝利をおさめたプロイセンは、
戦争に協力した南ドイツの諸侯も合わせ、
ドイツの盟主として「ドイツ帝国」の成立を宣言しました。


地中海方面への強引な進出は、他のヨーロッパ諸国全体を
敵に回すことになるとわかったロシアは、
方針を転換して東アジア方面からの南下を図ろうと、
シベリア鉄道を起工します。
(中略)
日露戦争は、こうしたロシアの方向転換により
引き起こされたものなのです。
そして日露戦争に敗北したロシアは、
再び地中海方面での南下を図って、
第一次世界大戦が勃発します。


植民地が広げられなければ国内の企業は倒産して、
ライバルの国に先をこされてしまい、
ひいては社会不安や革命につながってしまうのです。
こうした「資本主義の高度化」が植民地を拡大し、
様々な民族を支配する帝国主義につながったのです。


ドイツ側はオーストリア・ブルガリア・オスマン帝国と結んで
「バグダード鉄道」の敷設を、ロシア側は
ルーマニア・セルビア・ギリシアを結んで南下ルートの確保を図り、
それぞれの進出ルートがバルカン半島で交差することになりました。


敗戦国となったドイツとは講和条約の
ヴェルサイユ条約が結ばれました。
ドイツは全ての植民地を失い、軍備にも制限が与えられたうえに
"天文学的"といわれるほどの多額の賠償金をかけられます。
(中略)
この賠償金を払い終えたのは、なんとつい最近のことで、
2010年10月3日です。


スペイン内戦に対してイギリス・フランスは、
ヒトラーを刺激することを避けるため、
不干渉政策をとってヒトラーの軍事行動を
正面から阻止しませんでした。


敗戦国が実力で条約を結び直させ、領土を回復したことは、
歴史上でも非常に珍しい出来事です。
ケマルのただ者ではない能力がわかります。
こうしてケマルは「アタテュルク(トルコの父)」という
ニックネームをつけられ、トルコ共和国の初代大統領になりました。


この作戦によってイスラーム教徒は親イギリス的な性格を持ち、
「反イギリス的性格を持つイスラーム教徒中心のインド国民会議」、
「親イギリス的性格を持つイスラーム教徒中心の全インド=イスラム同盟派」
というように分裂していきます。


イギリスが本当に売りたいのは密輸していた「アヘン」ではなく、
産業革命において大量生産されていた主力製品の
「綿織物」だったからです。


イギリスはアロー戦争で清と戦いながら、
太平天国の乱では清を助けるという奇妙な状況でしたが、
清はせっかく不平等条約を結んだ相手なので、
滅亡させずに「生かさず殺さず」に
できるだけお金を絞り取りたいというのが本音だったのです。


和平のための「エジプト=イスラエル平和条約」では、
エジプト大統領のサダトが同じアラブ人に暗殺され、
「パレスチナ暫定自治協定」では、イスラエル首相の
ラビンが同じユダヤ人に殺されてしまいます。


インドの場合、イギリスが独立運動をしのぐための
「ヒンドゥー教徒・イスラーム教徒の仲間割れ作戦」が効いており、
宗教融和を訴えるガンディーの思いもむなしく、
ヒンドゥー教徒の多いインド連邦とイスラム教徒中心のパキスタンに
分離独立してしまいます。






engineer_takafumi at 22:42│Comments(0) ★一般書の書評 | ⇒ その他の本

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