2018年11月02日

20歳の自分に受けさせたい文章講義

本日は古賀 史健 氏の
20歳の自分に受けさせたい文章講義
です。



本書は大ベストセラー『嫌われる勇気』の著者による
文章の書き方についての本です。

本書ではまず、「文章とは何か」ということを語り、
その後に、文章のリズム、構成、読者視点をもつ重要性、
推敲の方法、について書かれています。

さすが、文章が論理的でリズムが良く、
読み手に努力を強いることなく、
自然に著者の考えが頭に入ってきます。
本書の文章自体がお手本になっています。


今の時代、文章を書くことの重要性は
いうまでもないでしょう。
しかし、国語の作文のようなものではなく、
本当に人の心をつかむ文章の書き方というものは、
実はほとんど教えられていません。

また、精神論に近く感じるかもしれませんが、
文章は最終的に読者にどれだけ寄り添えるかで決まります。

その寄り添い方を教えてくれる、良書だと感じました。


個人的には、
大きなウソは許されるが、小さなウソは許されない
という部分が特に印象的でした。

細部に宿る魂の正体がわかりました。


ブログなど、不特定多数人に向けた文章を
書く人にお勧めの一冊です。
文章を書くときの勘所を学べるでしょう。





なにも教わらない子どもたちは、
どうやって文章を書いていくのか?
子どもたちが頼りにする基準はただひとつ、
「先生の目」である。


"書く技術"を身につけることは、そのまま
"考える技術"を身につけることにつながる


"書く技術"が身につけば、ものの見方が変わる。
物事の考え方が変わる。
そしてきっと、世界を見る目も変わってくる。


"思い"というと言語化されたもののようだが、
頭をぐるぐる駆けめぐっているのは言葉ではない。
言葉以前の、茫漠たる"感じ"である。


頭のなかの「ぐるぐる」を、伝わる言葉に
"翻訳"したももが文章なのである。


感想文を書くためには、
その「なんかよくわかんない」部分に、
言葉を与えなければならない。
あいまいな記憶、漠とした感情に、
論理の串を突き刺さねばならない。
書き上げたあと、より深い理解が得られるのは、
当然のことである。


順番を間違えないようにしよう。
人は解を得るために書くのだし、解がわからないから書くのだ。
おそらくこれは、世界的な文豪たちでも同じはずである。


文がおかしいのではなく、
文と文の「つなげ方」や「展開の仕方」がおかしいとき、
その主張は支離滅裂になり、リズムよく読めなくなるのだ。


リズムがよい文章とは、
それだけ論理的に書かれた文章ということなのだ。


われわれは"感情"を伝えたいからこそ、論理を使うのだ。
"主観"を語るからこそ、客観を保つのだ。


書き手の側も聴覚的なリズムを気にする前に、
「視覚的リズム」を考えなければならない。


われわれは文章に向かい合うとき、
「読む」より先に「見る」のだ。
ほんの一瞬のことかもしれないが、まずはページ全体を見る。
そして1行目に眼を移し、読むのである。
だとすれば書き手は、内容だけでなく
「見た目」にも気を配らないといけない。


視覚的リズムの観点からいうと、
漢字を多用した文章は第一印象が悪い。


ひらがなにはひらがなの圧迫感がある。


漢字そのものが太字で書かれたキーワードのような
役割を果たしているわけだ。


自信があるから断定するのではなく、
自信を持つために断定する、
というアプローチを考えてもいいのではなかろうか。


文章を書くことは、他者を動かさんとする
"力の行使"なのである。


本当のリアリティは、日常の何気なところに転がっている
"面倒くさい細部"を描写することによって生まれるのである。


文章は"面倒くさい細部"を描いてこそ、リアリティを獲得する。
"面倒くさい細部"の描写によって得られたリアリティは、
読者の理解を促し、文章の説得力を強化するのだ。


アマチュアだろうとプロだろうと、
メールだろうと小説だろうと、
あらゆる文章の先にはそれを読む"読者"がいるのだ。


必要なのは、隣に立つことではなく、
読者と同じ椅子に「座ること」である。


人間は、どんな時代も同じこと(普遍的なこと)を考え、
同じことに悩み、同じことで苦しんでいる。
自分だけにしかわからない、誰にも理解されないと
思われる根深い問題こそ、じつは普遍性を持った悩みなのだ。


10年前のあなたと同じ問題を抱え、同じ景色を見て、
同じようにもがき苦しんでいる人は、必ずいる。
勉強、受験、友達関係、恋愛、いじめ、家族関係、
就職、仕事の悩み、なんでもいい。


「多数派」を対象とするよりも「少数派」に
狙いを定めたほうが、
誌面づくりはスムーズに運ぶのである。


見えやすそうでいて、もっとも顔が見えにくいのが
「多数派」なのである。


マニアックな言葉を入れていくほど面白くなっていく。
これらの固有名詞が一種の専門用語・業界用語として機能し、
同窓会のような仲間意識を高めてくれるからだ。
しかし、こうして専門性に溺れていくと、文章はどんどん雑になる。


専門書やマニア向けの雑誌などが(一般読者にとって)
読みづらいのは、このためだ。
出てくる言葉が難しいのではない。
読者に甘え、本来やるべき説明を怠っているから、
読みづらいのである。


自分の"嫌い"を深く掘り下げていくと、
最終的に書き手としての自分はどうありたいのか、
という潜在的な欲求が明らかになってくる。


「自分のことをわかってほしい」と願うこと、
それは他者の心の変容を求めていることに他ならない。


われわれは「正しい」だけでは動けないのだ。
頭で「正しい意見だ」と理解できても、
肝心の"心"が動かないのである。


主張のどこかに「これは他人事じゃない!」
と思わせる要素が含まれていないと、
われわれの心は動かない。
当事者意識を芽生えさせ、
他人事を「自分事」に変換してくれる、
なんらかの仕掛けが必要なのである。


文章の「起"転"承結」を成立させるためには、
冒頭に「自らの主張と真逆の一般論」を
持ってくる必要がある。
なぜなら、そうしないとあなたの主張が
"転"の役目を果たさないからだ。


われわれは文章をかくとき、常に
「自分は(そのテーマについて)なにも知らない"素人"に向けて書いている」
ことを意識しなければならない。


読者とともに、文章の中でもう一度
「ムダな回り道」を歩くのだ。


もし、あなたが反論の出ないような文章を
書いているのだとしたら、逆に危険信号である。
あなたは自分の"主張"を述べているのではなく、
とるに足らない一般論を述べているだけだと思ったほうがいい。
しっかりとした"主張"には反論が出るのはあたり前だし、
反論に答えることは、読者との有意義な"対話"なのである。


大きなウソは許されるが、小さなウソは許されない


物事の描写は、細部になればなるほど手を抜けないのである。


自らが語ろうとする対象について、
まだまだ理解が浅いから、"小さなウソ"が出てしまうのだ。


答えだけを求め、自分で解くことをサボった文章には、
必ずほころびが出る。


ぼくは「目からウロコが落ちる」要素は、
全体の3割で十分だと思っている。


驚きや感動だけが読書の醍醐味だと思ったら大きな間違いだ。
斬新でさえあれば面白い文章になると思ったら、
とんだ思い違いだ。


自分にとって「まったく知らない」分野であればあるほど、
どういうわけだか最終的な原稿は書きやすくなるのだ。


だから読者(観客)の気持ちがわかるし、
読者がどんなところでつまずくか、
どんな疑問を抱くのかが、かなり正確にイメージできる。
そしてまた、自分が「なにも知らない読者」から
出発して歩んできた"理解にいたる道"を忠実に再現すれば、
おそらく読者も理解・納得してくれるはずなのである。


書きはじめの編集段階における「なにを書かないか?」
という問いかけは、単なる消去法ではない。
「自分にとって大切なものはなにか?」をあぶり出す、
自己探求と自己分析の作業でもあるのだ。


頭の中身を可視化するには、
紙に書き出すのが一番である。


シンプルに「いまの自分」と「過去の自分」が
対話していると考えるのが、いちばん手っ取り早いし、
的確な推敲ができるはずだ。


推敲するにあたって最大の禁句となるのが
「もったいない」である。


「いい文章」とは
「読者の心を動かし、その行動までも動かすような文章」
のことである。






engineer_takafumi at 21:39│Comments(0) ★一般書の書評 | ⇒ 書き方・話し方・言語

コメントする

名前
 
  絵文字