2023年07月01日
会社という迷宮
本日は石井 光太郎 氏の
会社という迷宮
です。
本書は1980年代から40年にわたって
経営コンサルをされてきた著者による一冊です。
例えば「戦略」や「利益」、「組織」といった
経営にとってのキーワードを元に、
著者が論じていく一冊です。
全てが抽象的な話で、
具体的な話は一切出てきません。
それが本、一冊続きます。
また、ともすれば、
現在の会社や経営者に対しての
グチや説教ともとれる内容かもしれません。
ですが、言葉が重く、本質的で、
感じ入るものがあります。
「だからどうしろというのか」
という声も聞こえてきそうですが、
そもそも原則にのっとった経営が
必要なのでしょう。
個人的には「開発」の部分が
特に印象に残りました。
私も大企業で開発の仕事をしていますが、
現状が的確に言語化されていて、
視界が晴れるように感じました。
大企業では「開発」というものは
できない構造になっているのですね。
会社を経営される方には
ぜひ一読して欲しい一冊です。
会社というものの原理原則を
学ぶことができるでしょう。
会社という迷宮
です。
本書は1980年代から40年にわたって
経営コンサルをされてきた著者による一冊です。
例えば「戦略」や「利益」、「組織」といった
経営にとってのキーワードを元に、
著者が論じていく一冊です。
全てが抽象的な話で、
具体的な話は一切出てきません。
それが本、一冊続きます。
また、ともすれば、
現在の会社や経営者に対しての
グチや説教ともとれる内容かもしれません。
ですが、言葉が重く、本質的で、
感じ入るものがあります。
「だからどうしろというのか」
という声も聞こえてきそうですが、
そもそも原則にのっとった経営が
必要なのでしょう。
個人的には「開発」の部分が
特に印象に残りました。
私も大企業で開発の仕事をしていますが、
現状が的確に言語化されていて、
視界が晴れるように感じました。
大企業では「開発」というものは
できない構造になっているのですね。
会社を経営される方には
ぜひ一読して欲しい一冊です。
会社というものの原理原則を
学ぶことができるでしょう。
自然人である「人間」に対しては
「弱いやつには生きる意味も資格もない」
とは考えないのが当たり前なのに、
法人である「会社」に対しては
「勝てないのであれば存在する意味もない(死ぬしかない)」
と断じて疑わない発想は、
地下茎でどこか通じているのであろうか。
そもそも「市場」があったから「競争」があるのではない。
「競争」をクローズアップしてスポットライトを当てるために、
「市場」という概念が必要とされているだけなのである。
「市場」とは、本来、その会社の独創なのである。
その独自の「市場」観が、その会社がその会社たる所以である。
「価値」とは本来、主観的なものである。
客観的にできるのは「計測」だけだ。
「価値」が「価格」にすり替えられたのと同じように、
誰かによって決められた尺度に拠る客観的な「計測」値が、
「客観的で絶対的な価値の評価」なる謎のものに、
巧みにすり替えられてしまっているのだ。
会社とは、あるいは事業とは、そもそも、
世の中に対して自分の信じる新しい「価値」自体を
問うものであるのではなかったか……。
「その会社がやるべき理由のないことは、やらない」
というのが「変わる」ときに原理原則で、
それが「貫く」ということの意味である。
「株式会社」制度とは、
社会の総員によるリスク負担は覚悟した上で、
世の中の進歩発展のための挑戦を、
社会を挙げて促進しようとする社会的合意なのである。
「帝国主義の時代に、日本とタイだけはなぜ西洋列強の植民地とならなかったのか」
という昔からの疑問の1つが氷解した気がした。
単なる支配者("ruler")としてではない、
動かぬ精神的支柱としての
(のちの言い方に倣えば、国民統合の象徴としての)
国王がそこに存在していたのである。
「会社」は「国家」とは異なり、
自発的に形成された組織であるから、
誰もが生まれながらにしてその「会社」と
関わっているわけではないし、
それに関わることを強制されているわけではない。
経営者自身の「自我」が、スカスカであっては、
そもそも話にならないということを、
改めて肝に銘じなければならない。
中身があるのか、スカスカなのかは、
誰より社員によってすぐ見抜かれる。
人間は現実化した危機にしか
「危機感」を覚えないという意味では、
ほぼ定義上、「危機感」は「改革」の原動力とは
なり得ないということである。
戦争を起こすというのは簡単だが、
これを止めるというのはとんでもない大事業
否定の対象が明確であればあるほど、
行き先としての〇〇の意味が鮮明に浮き上がり、
行動につながるものとなる。
先の見えない「開発」の成功に向けて大きな重圧を背負い、
陽の目を見なければそれまでの努力が水泡に帰すだけでなく、
社内から「金食い虫」だと白い目で見られ、
逆に軌道に乗れば「皆の支援のお陰」だとされる。
そんな役回りである。
「開発」とは、「会社」経営の中で
最も多数決や大衆討議になじまない営為だということだ。
だからこそ、この支えるという仕事は、
経営トップのみに許された大仕事なのである。
意思決定に至るすべての理屈を客観的に
透明化しようとするのは、一歩譲れば逆に、
誰が決めるかということを、
あえて不透明にしようとする企みとさえ映る。
本来なら、技術・人材・資金をはじめ
活用できる経営資源の豊富さということでいえば、
いわゆる企業内起業のほうが条件としては
圧倒的に優位であるはずなのに、である。
それは「会社」という場がいかに、
創造への挑戦を懐に抱く器量を失い、
逆に自由な挑戦を縛る足枷の巣窟になっている
証左として、受け止めなければならないであろう。
現実に目をやれば、「開発」の案件が雨後の筍の
如く生えてきて選別に困る状況とは到底みえず、
そんなこと以前に「開発」の泉そのものが涸れ、
何も芽吹かない荒野となりつつあるようにさえ見える。
ただ目に見えるリスクとリターンの評価をモノサシとして、
芽を摘むことを繰り返していれば、そうなるのは必定であろう。
外部化した「開発」案件(としての「起業」)は、
それこそ丸裸になって、その計算された
リスクとリターンのモノサシでの
評価を受けることを強要される。
まだ卵のときから、ガラス張なのである。
経営者は「人材」が育たないことを
しきりに嘆いているが、それは、
「組織」が「人材」を活かせていないということに、
ほぼ等しい。
本来必要なのは、自分に匹敵するような
「人材」を育てるということではなくて、
自分にはできないことをやってくれる
「人材」を見出し活かすことのほうなのである。
主観的判断に拠って「やるべきだから、やる」
ことを仕事にできる「人材」が、
将来において果たしてどれほどいるかというのが、
「人材」の稀少性の問題なのである。
いったんは「専門家」に客観的見解を言わせた上で、
それを踏まえた体裁で、決めたいように決める、
という予定調和的な集団意思決定手順である。
むかしから、大会社が「コンサルを使う」際の、
一つの典型的な建付けであり、建前であるともいえよう。
いまSDGsという時代の要請に従った(乗っかった)
ほうが「トク」だからという思考で
その流れに乗るだけの「会社」は、
地価は上がり続けるという風潮に乗って
土地開発に投資し続けていたあの頃の「会社」と、
本質的には何も変わらない。
全体系の最適化が図られるのは
システム内部に取り込んだものだけであるから、
収奪された残骸や、外部に排出された老廃物は、
最適化計算の対象外であり、平たく言えば
「あとは野となれ山となれ」
とされてきたのである。
めざしてもいないものが、いつしかできることなど、
ありはしないのである。
その「会社」がめざすものというのは、
借り物や飾り物としてそこに置いてあれば
よいというものではない。
そこから、すべてが始まるのである。